第70話 丹波・丹後へ出陣・・・する?
光秀は丹後・丹波に出陣するのでしたよね!・・・どうして出陣する事になったのでしたっけ?
討伐される内藤貞勝・宇津頼重は、何をしたのですか?
この二人は足利義昭が反旗を翻した際に、足利義昭方についた武将のようです。
なるほど、その時から良い関係性ではなくなっていたのですね。
長島一向一揆や越前の件が落ち着いて、やっと手をつけられるということかも知れませんね。
光秀は、いつ頃丹波・丹後へ出発の予定ですか?
では、史料を日付順に見ていきましょう。
よろしくお願いします。
たしか小畠左馬進は怪我をしていましたよね、大丈夫なのですか?
史料にも無理をせずに若い衆に出陣させるようにとあるようです。
大事にして欲しいですね。あれ?この時光秀はまだ越前にいたのですか?
9月25日に坂本城に戻ったようなので、この時はまだ豊原城にいたと思われます。
丹波・丹後の出陣の前に、いちど坂本に戻るのですね。
9月25日に帰陣し愛宕山威徳院に祈念を依頼します。そのため9月21日に、愛宕山威徳院へ丹後出陣にあたり祈念の礼に銀子五枚奉納する旨を伝えています。
事前連絡はとても大事ですね。
前のお手紙に加えて越前平定のお礼もしたということですね。
河瀬宗綱って誰ですか?
河瀬宗綱は、奈良県橿原市今井町にある称念寺の元となった念仏道場を建てたとされている人です。
念仏ってなんとなく一揆勢を思い出すのですが・・・。
石山本願寺の顕如上人から寺号を得てたてたとあるので、当時は敵対勢力だったと思われます。
・・・やっぱり。今井郷惣中の「惣中」って総てのという意味でしたよね?
そうです。「今井郷惣中」は「今井郷の総ての人に」という意味ですね。
今井宗久って、誰ですか?
今井宗久は堺の商人で茶人です。織田信長の天下統一を側面から支え、茶人としても織田信長の茶頭を務めるなど織田信長に重用された人です。
藤田伝五は誰ですか?
光秀の家臣です。最後まで仕えてくれる重臣となる人です。
大事な人ですね、覚えておきます!この書状は、結局どういうことなのですか?
石山本願寺派の今井郷の人々が、商人の今井宗久を通じて降伏してきたので承認した。ということがわかる書状です。
丹波・丹後の出発前になんだか良い知らせで嬉しいです。
荻野直正ですか?確か討伐するのは内藤貞勝と宇津頼重でしたよね?
荻野直正は丹波の黒井城城主です。悪右衛門という名で有名な武将で、波多野元秀の娘や近衛前久の妹と婚姻関係もあったようです。
悪右衛門って・・・すごい呼び名ですね。
この頃の「悪」という言葉は「悪い」という意味ではなく「強い」という意味です。
悪い人ということではなくて強い人ということですか?
そうです、『甲陽軍鑑』には「名高キ武士」と名が挙がるほどでした。
すごい人だったのですね、なのにどうして討伐の対象になったのでしょう?
討伐の理由は和睦したのにもかかわらず出頭しないためとされていますが、史料が少なく確かな事はわかりません。
史料がもっと見つかるともっとよくわかりそうです。
近江の小松庄ってどの辺りですか?
滋賀県大津市に小松という地名が残っているのでその辺りだと思われます。ちなみに滋賀県高島市には鵜川という川と鵜川という地名が残っています。
地名があるのですね、川の畔で稲を刈るのだと思ってしまいました。
近江の行政もこなしていた光秀ですが、10月4日に紹巴へ、聖護院道澄の所に礼に参上したいが丹波へ至急行かねばならないので取成しを依頼する書状を出します。
そろそろ出発の予感ですね。
いつ頃出発したかの詳細な記録は残っていませんが、担当者として情報は入ってきているのがわかる書状があります。
書状ですか?
どんな内容ですか?
宇喜多直家の端城を奪取し浦上宗景に守備させたこと、荒木村重が帰陣したこと、丹波・丹後平定については光秀からも詳細な報告がなされ喜悦の至りであること、10月10日の上洛予定していること、が書かれています。
現地に行っているかはわからなくても、きちんと報告していることがわかるということですか?
そうですね、この後も何度か触れると思いますが、なにより織田信長は「報告・連絡・相談」を大事にしているということがわかる史料です。
聞いたことあります!「ホウレンソウ」ですよね。
現代にも企業活動でも重視されることをすでに織田信長は実践していました。
織田信長はすごい人ですね。
そしてこの史料は、光秀が現地で動いている家臣や与力と密に連絡を取り合い、織田信長に報告をしていたということもわかる重要な史料です。
たしかに、着々と丹波・丹後攻めに向けて準備しているのがわかります。
そしてその情報も確かだと、現地の方々頼もしいです。織田信長は何の為に上洛するのですか?
そうですね・・・ではそれは次回ということにしましょう。
気になります!