第68話 丹波の内藤・宇津討伐と官位のお話
織田信長が勢力を拡大していくと言っていましたが、どういうことですか?
この後、織田信長は光秀に丹波の武将を討伐するように命じます。
丹波の武将は何かしたのですか?
史料からはわかりませんが、何かしら理由はあったと思われるので、もっと史料が発見されればわかるかも知れません。
誰を討伐するように命じられたのですか?
では、史料を見ていきましょう。
はい!
川勝継氏って、誰ですか?
川勝継氏は、丹波国桑田郡・船井郡内を知行している足利義輝の時代に奉公衆として仕えていた武将です。桑田郡今宮に住んでいて、足利義昭と織田信長が対立すると信長に従うようになったそうです。
丹波国の桑田郡・船井郡は、どの辺りですか?
今の京都市右京区京北各町・左京区広河原各町・亀岡市の大部分・南丹市美山町各町・八木町神吉・大阪府高槻市田能・中畑・出灰・杉生・二料・大阪府豊能郡豊能町牧・寺田が桑田郡です。
大きな郡ですね。
船井郡は、京都府京丹波町、南丹市園部町・八木町のうち旧北桑田郡神吉村を除く地域、および日吉町です。
川勝継氏はとても広い土地を治める領主だったのですね。内藤貞勝・宇津頼重はどこに住んでいたのですか?
内藤貞勝は、丹波国八木城主です。八木城は、今の京都府南丹市八木町にありました。今も城跡が残っています。
丹波は山城のお隣なのですね。
宇津頼重は、丹波国桑田郡宇津荘の宇津城主です。宇津城は、京都府京都市右京区京北下宇津町にありました。こちらも同じく今も城跡が残っています。
光秀は丹波に行くのは初めてでしたよね?
そうですね、なので織田信長は案内役を頼んだようです。
ありがたいです。
賞しということは、この頃には丹波へ出陣したあとですか?
これは案内役をしたことでは無く、「丹波の案内役を引き受けてくれてありがとう、丹波だけで無く丹後もよろしく頼みます」ということです。
なるほど!
案内役だけで無く出陣も命じられたのですね。
小畠左馬助と小畠左馬進って別の人ですか?
光秀の書き間違いで同じ人だと言われています。
崩し字だとこういう勘違いも起こるのですね。
京都の行政・・・ということはまだ丹波へは出陣していないのですね。
そうです。今はまだ準備期間です。
準備は大事です!
7月3日に織田信長は、詔勅で官位を賜ったが辞退。代わりに家老衆に名字・官位を授けました。松井友閑は宮内卿法印、武井夕庵は二位法印、光秀は惟任日向守、簗田左衛門は別喜右近、丹羽長秀は惟住です。
官位ってすごいことですよね?
定説や、現代語訳では織田信長が推薦して家臣がもらったと書かれることが多いです。
朝廷から位をもらうなんて公家みたいですね。
しかし、史料の原文を見てみるとどちらともとれない書き方になっていて、断言は難しいです。
ということは朝廷からではなく、織田信長が授けた可能性もあるということですか?
そうですね。実はこの時に、羽柴秀吉も筑前守を名乗ることを許されたようなのです。
筑前と日向ってどの辺りですか?
筑前は福岡県北西部、日向は宮崎県です。どちらも今の九州地方なので、まだ支配領域にはなっていません。
支配領域になってないところを、任されたということってあるのですか?
理由はわかりませんが、これから進出して欲しいという願いを込めたのかもしれません。
・・・謎が多いですが、この史料でわかることはどんなことですか?
この資料でわかるのは、足利義昭を追放した後も、織田信長と朝廷は良い関係を保っていたということです。
確かに大事なことです。
畠ってなんのことですか?
畑のことです。
そんな細かいことまでやらなくてはいけなかったのですね。
壬生朝芳と高倉永相は武将ですか?
壬生朝芳は左大史、高倉永相は権大納言の高倉永家の嫡男で、二人とも公家です。
今まではお寺や神社に関することが多かったのに、公家に関することに変わってきましたね。
そうですね。光秀の手伝いが必要なのも、あと少しの間かも知れませんね。
足利義昭が追放されてから大変そうでしたから、良かったです。
小畠左馬進は大活躍ですね。
大坂の方もなんだか大丈夫そうですね。では丹波へ出陣ですか!?
いいえ、このあと光秀は越前に出陣します。しばらくの間、丹波は小畠左馬進へ任せることになります。
越前ですか?
この時の越前は、加賀・越前一揆勢が支配を広げていました。
そうでした。ついに越前を取り返しに行くのですね!
この続きは次回です。
気になります。