第69話 越前へ出陣 再び越前攻め!きっと内心複雑な光秀の隠れた活躍?
越前に出陣と言っていましたが、今回の敵は越前の一向一揆でしたよね。
そうです。朝倉義景を討ち平定した越前でしたが、越前の一揆勢により支配を奪われていました。
今回は取り返しに行くのですね。いつ出陣ですか?
では今回も史料を順番に見ていきましょう。
よろしくお願いします!
天正3年8月12日に織田信長は、越前へ出陣し、その日は垂井に陣宿します。
垂井はどの辺りですか?
岐阜城から28Kmの辺りに、今も岐阜県垂井町という町があります。翌日に泊まる小谷城までは30Kmくらいです。
ちょうど中間辺りですね。
8月13日に織田信長は羽柴秀吉が守備している小谷城へ到着し、宿泊します。
あんなに攻めるのが大変だった小谷城なので、とても頼もしく感じます。
勅使?朝廷からの使者ですよね?どんな御用だったのですか?
この史料からは詳しくはわかりません。
織田信長はその日はどの辺りに居たのですか?
織田信長は、敦賀に到着し武藤舜秀の居城である敦賀城に陣を構えていました。
あれ?光秀はいつ頃出陣ですか?
騎と言うことは3万人以上の騎馬隊ということですね。迫力がすごそうです。
これを受けて円強寺・若林長門父子の軍勢が出撃してきたが、光秀・羽柴秀吉が二百から三百人討取り、円強寺・若林城へ乗り込み焼き払います。
光秀も羽柴秀吉も強いです!
夜になり、敵の立て籠もる府中竜門寺を乗っ取り焼き払うと、付近に布陣していた敵は府中目指して退却しました。
夜まで続いたのですね。
光秀・羽柴秀吉は退却した敵を追い、府中の町で加賀・越前の一揆勢二千人余りを切り捨てます。
二千人以上・・・。だんだん規模感がわからなくなってきました。
羽柴秀吉は光秀と相談し、去年木芽城を奪取された遺恨があるため、夜中に越前府中へ進撃します。二手に分かれて敵兵を待ち伏せしました。
一日中激戦が続きますね・・・。
あれ?織田信長は府中に向かわないのですか?
織田信長は敵兵が府中へ流入するのを防ぐため木ノ芽峠で待機します。
なるほど。
光秀・羽柴秀吉が府中へ侵入し敵兵を掃討し、越前は一国平均に属し、府中は死骸ばかりにて一円あき所ない状態となりました。
なんだか・・・ちょっと現実とは思えないほどですね。想像すると怖いです。
小畠左馬進は怪我を!?書状はどんな内容なのですか?
体を大事にして欲しいということと、越前攻めが終わり次第丹波の宇津に攻め込むということが書かれています。
この頃の怪我がどのくらい治っていくのかわかりませんが、心配です。
加賀は一向一揆の本拠地ですよね、ずいぶん攻め込みましたね。
8月28日に織田信長は豊原へ陣を進めます。
豊原はどの辺りですか?
山の中ですね。
9月2日に織田信長は、北庄へ行き城を普請するように命じます。
お城ですか?
この場所に柴田勝家の居城になる北ノ庄城ができます。
どの辺りですか?
今の福井県福井市中央1丁目です。今も城跡が残っています。
福井駅の近くですね。
そして北庄の普請場において、打下の林員清を切腹させます。
切腹!?林員清って坂本で一緒に舟作った人ですよね?何したのですか?
元亀元年の志賀の陣の折に浅井・朝倉軍の手引きをし、早船に乗って織田軍に錆矢を射かけるなどしたようです。
・・・よく今まで生きていましたね。普請場でということは工事現場ですよね?少々生々しいですね。
その後、越前の国分けをしました。
国分けですか?
越前国をそれぞれ家臣に分けて守護させました。柴田勝家に八郡を、金森長近に大野郡の三分の二を、原政茂に大野郡の三分の一を、不破尚光・佐々成政・前田利家にはそれぞれ二郡を与えました。
柴田勝家はやっと大きい領地をもらえたのですね。
そして光秀に直ちに丹後へ出陣するよう命じます。
越前に丹波・丹後に忙しいですね。
9月11日に光秀は、柴田勝家に東大味の一帯の安堵を依頼します。
東大味は光秀が前に住んでいた地域ですね、どうして柴田勝家に安堵を依頼したのですか?
柴田勝家がもらった地域だったようですね、この書状により東大味は安堵され明智神社が生まれるきっかけとなります。
17話で出てきた明智神社ですね!
そうです。次回の光秀は丹波丹後攻めです。
ついに出陣ですね!