第67話 河内へ出陣と長篠の戦い

前回、河内に出陣といっていましたが、今度はなにをしにいくのですか?

今回は、三好勢と戦う為の出陣です。

いつ頃、出陣したのですか?


今回は、織田信長と別行動ですか?

途中合流のようです。織田信長は4月6日に、京都から出陣しました。

まず、どこに向かったのですか?

4月8日に駒ヶ谷山に陣を敷いて、三好康長が立てこもる高屋城を攻めました。

高屋城はどの辺りですか?

高屋城は、今の大阪府羽曳野市古市にありました。今も城跡が残っています。

他にはどんな武将が出陣したのですか?

史料に名前があがっているのは、佐久間信盛・柴田勝家・丹羽長秀・塙直政です。

いつもの織田軍の皆様ですね。

その日は、高屋城だけで無く、誉田八幡や道明寺河原にも同時に進撃し、次々に敵陣を制圧しました。

ということは、名前のあがっていないたくさんの武将がいそうですね。

4月12日に織田信長は、住吉へ陣を移し、13日に天王寺へ馬を進めました。この時総勢10万あまりの軍勢が、天王寺・住吉・遠里小野の辺り一帯に陣を敷いていました。

・・・予想以上に多い人数でした。

史料には、畿内・若狭・近江・美濃・尾張・伊勢・丹後・丹波・播磨・根来寺の四つの谷が参陣しているとあります。

なんだか、みなさん総出でいらっしゃいました、という感じです。

4月14日に大坂へ進撃し、農作物をことごとく薙ぎ払いました。

この人数で薙ぎ払われたら、稲穂の一本も残って無さそうです・・・。

あ!光秀やっと名前が出てきました。織田信長の側に居たのですね。

4月16日に織田信長は遠里小野へ移動、17日に敵の立て籠もる新堀城に攻撃を開始します。

新堀城は、どのあたりですか?

新堀城は、現在の保利神社の辺りに城郭があったとされているが、遺構などを確認することは出来ていないそうです。保利神社は、大阪府大阪市住吉区長居東にあります。

進行ルートや人数からしても、全面的に包囲されていそうですね。

4月19日の夜中に諸軍が一斉に攻撃を開始します。

10万人の一斉攻撃は、もうどうしたら良いかわかりませんね・・・。

この戦で、170人あまりの武将が討ち取られたそうです。

人数の差が・・・。

ちなみに、三好康長は松井有閑を通じて降参してきたので許されました。

もっと早く降参してくれれば・・・なんとも複雑な気持ちです。

織田信長は、塙直政に命じて高屋城を含む河内国中の敵城をことごとく破壊させました。

確かに石山本願寺との戦いはまだ終わってないですから、お城があるとさらに混戦しそうです。


三好勢との戦いは長かったですが、最後の戦いはとてもスピーディーでした。

4月27日に織田信長は、坂本から光秀の舟で佐和山へ渡海しようとしましたが、強風のため陸路で佐和山へ行き、28日の朝8時頃、岐阜に帰陣しました。

今更ですが、坂本から岐阜まで徒歩1日でいけてしまうのですね。

そうですね。ただ、舟で帰る予定が変わってしまったので、大変であったのは間違いないと思われます。

舟と徒歩では準備もきっと違いますよね・・・。この戦の後光秀は、なにをしていたのですか?

この連歌会はどこで催されたのですか?

史料からはわかりませんが、この後15日には光秀が坂本で連歌会を催しています。

やっぱり連歌と聞くとなんだか雅なイメージです。

ちゃんと行政もこなしていますよ。5月14日に武井夕庵・村井貞勝・光秀は、山城天龍寺妙智院の策彦周良へ北山等持院の件について、出頭すべきことを通達します。

連歌会の前日ですね。

そうです。この日に光秀は、坂本にて島津家久・紹巴らを饗します。

饗するとは、酒や食事を出して人をもてなす。饗応する。なるほど、前日から招待して・・・なんだか楽しそうです。


なんだか平和で良いです。

そんな中、5月21日に織田信長は、長篠の戦いで武田勝頼に大勝します。

あれ、いつのまに戦ですか?光秀は出陣した様子が無いですが??

そうですね。光秀は出陣していません。
織田軍は5月13日に出陣したようで、史料によると信長、信忠のほか、徳川家康・滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀・酒井忠次・金森長近・佐藤秀方・賀藤市左衛門・佐々成政・前田利家・野々村正成・福富秀勝・塙直政が出陣していたようです。この中に光秀の名前はありません。

どうして徳川家康が参戦しているのですか?

長篠の戦いというのは、武田軍が徳川家康から奪った三河を取り返す戦いだったからです。

なるほど!ということは織田・徳川連合軍なのですね。

この戦いで武田軍から三河を取り返し、支配を徳川家康に任せました。

・・・あれ?そうなると三河は織田信長のもので、徳川家康が家臣として任された事になるのですか?

この頃から、徳川家康と織田信長との関係が対等ではなくなり、織田信長を主君とする織田政権下の一大名の立場になるようです。

ところで、長篠の戦いのあいだ、光秀は参戦せずに何をしていたのですか?

光秀は京都の行政をしていました。5月23日に光秀・村井貞勝は、山城賀茂社中へ京中で定めた斗米によって税を受け取るように指示をだします。

なるほど、お留守番だったのですね。

お留守番の光秀へのお手紙ですね。

5月25日織田信長は、岐阜へ帰陣します。

なんだか、織田信長の軍は強くなってきましたね。

そうですね。ここから少しずつ勢力を拡大していきます。

次回が楽しみです。
