第45話 元亀2年に起きた出来事~前編~
元亀2年は光秀にとってターニングポイントになる年ですよね。
そうです。光秀と光秀の周りで起こることを日付順に、まずは6月まで見ていきましょう。
はい、よろしくお願いします。
前回も少し触れましたが、2月19日に光秀は吉田兼見から宇佐山で人足25人を受け取っています。
確か宇佐山城の修復の為でしたね。
2月24日に丹羽長秀が、包囲していた佐和山城の磯野員昌(浅井長政の家臣)が降参し高島に逃げます。丹羽長秀は城代として入城する事になりました。
元亀元年の6月末から包囲していたお城ですね。城代って何ですか?
城代とは、城番と同じで城及び周辺の領土の守備を任された家臣のことです。
なるほど。城番の時も思いましたが、なんだか単身赴任のようですね。
5月6日、浅井長政が姉川まで進出してきます。木下藤吉郎が城番をしていた横山城に攻めてきました。
ついに動きが!どうしましょう?
木下藤吉郎はこれを撃退。浅井長政は撤退しました。
木下藤吉郎も後生に名を残すだけあって強い武将だったんですね。
5月12日、織田信長は長島の一向一揆を攻めるために津島まで出陣していました。
織田信長はどうしてこのタイミングで長島一向一揆を攻め始めたんですか?
第一次信長包囲網の影で、尾張の小木江城に居た織田信興(信長の弟)が、石山本願寺の門徒の一向一揆に攻められ切腹した一件がありました。
覚えています。43話の時ですね。
この時の一向一揆が長島の一向一揆だったので、織田信長は弔い合戦に向かったのだと思われます。
そうだったのですね・・・。結果はどうだったのでしょう?
織田信長軍が放火して撤退しようとしたところ、最後尾の柴田勝家に一揆勢が襲いかかります。柴田勝家は軽傷を負って撤退。氏家卜全の他、織田家の家臣が数名討死してしまいました。
え?まさかの返り討ち・・・ですか?
史料にはありませんが、その前後の史料から察するに本隊はなんとか撤退したようです。
一向一揆。・・・侮れませんね。
5月27日に、奉公衆の上野秀政と荒川興三の喧嘩が起こります。
喧嘩なんて、なにがあったんでしょう?
どういう経緯の喧嘩だったのかの史料はありませんが、けが人も7,8人でてしまいました。
でも、喧嘩で史料に残るほど大事になるものですか?
この件で6月12日に足利義昭から内書が発行されました。
喧嘩でわざわざ足利義昭から内書・・・。内書の内容が気になります。
史料には内容は書かれていません。わかるのは、細川藤孝が織田信長に内書のことを知らせたことと、織田信長が「上野秀政の使者と荒川興三の使者と光秀にそのように伝えます」と足利義昭へ伝えて欲しいと細川藤孝に頼んだ、ということです。
織田信長がこの喧嘩に関わっているのかも気になるところですが、なんでここに光秀が登場するんですか?
平時の光秀は幕府の役人として朝廷との対応役をしていました。
最近、戦いが続いていたので忘れていましたが、そういえばそうでした。たしか一緒に働いていた織田方の朝廷の対応役は朝山日乗でしたね。
そうですね。この時光秀が登場したのは、「朝廷側から問い合わせがあった際に答えられないと困るから伝えとこう。」という織田信長の配慮だったのではないか。と思われます。
なるほど、たしかに答えられないのはよろしくないですね。
織田信長が直接命令しないのはどうしてですか?
幕府の役人の光秀が伝令する事で“天下の儀を委ねられている”正当性を高める効果がありました。
それにしても領地を交換なんて初めてですね。どうして交換する事になったんですか?
織田信長が三好正勝に領地を給付したところ、三好勝正から少し近いところが良いという希望があり、新しい領地は伊丹親興の領地と近かったため交換することとなったようです。
なるほど。領地に関して多少の希望が通ったというのはちょっと意外でした。
ここまでが元亀2年の前半です。
すでに盛りだくさんでした。光秀はまだ幕府の奉公衆として働いていますね。
後半はもっと密度が濃くなりますよ。
頑張ってお勉強します!