第43話 敵に囲まれる織田信長
比叡山延暦寺に逃げ込んだ朝倉・浅井軍を包囲し始めた織田軍。元亀元年12月13日に和睦がなり両軍が撤退することになったと前回聞きましたが、何があったんですか?
そうなんです。このころ信長は、各方面に敵を抱えていたんです。順番に説明しましょう。
まずは、朝倉・浅井軍が逃げ込んだ比叡山の話から振り返ってみましょう。
はい。
復習になりますが、9月24日に比叡山に申し入れをしましたが、何の回答もないので9月25日に比叡山を包囲しました。
そうでした。
包囲してからは夜ごと忍び込んでは放火しました。
えっ!?夜ごと?まさか織田信長がやったわけではないですよね?
史料には山本対馬守・蓮養坊とあります。「比叡山の地理に通じていた」とも書かれています。
なんともちくちくとした攻め方・・・。
その少し後、10月20日に朝倉方に使者を出し「一戦を交えて決着をつけよう」と申し入れるもなかなか返答はありません。
迷っているのでしょうか?最終的にはお返事はどうだったんですか?
結局和睦を申し入れてきました。
なるほど。ここで和睦ですね。
いいえ、織田信長はこれを拒否します。
なんと・・・。「一戦を交えて決着をつけよう」の意思は固かったんですね。
摂津、河内の方面も穏やかではありませんでした。
たしか、比叡山の救出に向かうために、摂津中島から帰ってきたんでした。
河内・摂津方面では三好勢があちこちに出没して気勢をあげていました。織田方の守りは堅かったようです。織田方は必死に守っていたのだと思います。
また三好勢・・・。
近江も大変だったようです。
はぁ。。
六角義方親子は三雲定持の居城だった菩提寺の城まで進出してきていました。
兵が揃わなかったのか、織田方への攻撃はなかったようです。
こっちは六角氏・・・。菩提寺の城ってどこですか?「だった」というところが気になりますが・・・。
菩提寺の城とは、三雲定持の居城で三雲城とも呼ばれています。今の滋賀県湖南市にあり現在でも城跡が残っています。三雲定持は六角氏の家臣でしたが落窪での戦いで討ち取られています。
あ、あのときですね。
近江で敵となったのは、六角氏だけではありません。
石山本願寺の門徒達が、近江で一揆を起こして尾張・美濃への道を遮断していました。
あっちもこっちも・・・。
木下藤吉郎と丹羽長秀は信長の一大事を知り、志賀にいた信長の援軍に向かい、一揆勢を鎮圧しています。
あれ?この二人はどこかを包囲中でしたよね?
横山城と佐和山城です。浅井氏とは敵対関係なので、そちらにも充分軍勢を残してきていたようです。
なんと。・・・優秀ですね。
そこで、織田信長は丹羽長秀に命じて11月16日瀬田に鉄製の舟橋をかけます。
舟橋ですか?
舟橋とは浮橋の一種で船の上に板を渡して連結したものを言います。瀬田の橋は、この後、何度もでてきますが、京都へ出入りするための交通の要衝です。信長は軍勢をスムーズに動かせるように、堅固な橋を架けたのでしょう。
急いで作ったけどしっかりしている・・・という感じでしょうか。
伊勢・尾張方面も大変だったようです。
こちらは、尾張の小木江城に居た織田信長の弟の織田信興が、石山本願寺の門徒の一向一揆に攻められていました。
え!?
一揆勢に討たれるのは無念と11月21日に切腹しました。
なんと・・・。
そして11月22日に六角氏と和睦、その後足利義昭の強い勧めがあり12月13日に朝倉・浅井軍と和睦しました。
足利義昭が勧めたんですか?
豪雪の季節になってきたからなのか朝倉義景が足利義昭に嘆願したので足利義昭はわざわざ三井寺まで出向いて和睦を進めたそうです。
三井寺。上洛の時に出てきたお寺ですね。すでに懐かしいです。でも、和睦が続きますね。
織田軍は各方面に敵を抱えて、和睦するしかありませんでした。
確かに敵だらけです・・・。
戦い続きのこの年ですが、光秀に嫡男・光慶が生まれたようです。
嫡男!娘の印象が強い光秀にもちゃんと嫡男がいたんですね!!
もちろんです。フロイスの『日本史』によれば、天正10年(1582年)の坂本城落城時に「長男は13歳」と書かれているので数え年で13歳であれば、この年の生まれということになります。
本能寺の変の年に13歳・・・。なんとも胸が苦しくなりますね。