第18話 番外編 織田信長との出会いっていつ?

ガラシャ

これからついに信長登場!?というところなんですが、光秀は土岐頼純と織田家に行ったことがありましたよね?
光秀と織田信長のちゃんとした出会いはいつなんですか?

憲三郎先生

土岐頼純に仕えていた頃に出会っていたのかは史料では確認できません。史料に残る最初は本圀時での戦いです。
この後登場しますが、永禄12年1月4日のことです。このとき織田信長は岐阜から本圀寺に援軍に向かっていますので本圀寺で出会っているとみられます。しかし、上洛の際に立正寺でも会っているのではないかと思われます。

ガラシャ

ということは光秀と織田信長が出会った時にはもう美濃は織田信長の支配下にあったんですか?

憲三郎先生

そうですね。永禄10年8月15日に織田信長の支配下になっています。

ガラシャ

斎藤義龍・・・一色氏になったんでしたね。義龍はどうしたんですか?

憲三郎先生

斎藤義龍は一色左京大夫と名乗っていました。結果的には一色左京大夫は病死し後を継いだ斎藤龍興は稲葉山城から追い出され伊勢長嶋に行きます。最後は越前朝倉氏に身を寄せて織田軍が朝倉攻めをした際に討ち死にすることになります。

ガラシャ

追い出された経緯も気にはなるのですが、そもそもどうして織田信長と戦っていたんでしょうか?

憲三郎先生

土岐頼純が死んだあと織田信長は斎藤道三の娘を娶り斎藤道三と同盟を結んでいました。

ガラシャ

斎藤道三もですがこの時代は婚姻による同盟をよく結びますね。

憲三郎先生

そうですね。しかし、斎藤道三を討った一色左京大夫は度々尾張北部の守護代織田信安や織田信宏(信長の腹違いの兄)と示し合わせて尾張南部の守護代織田信長に敵対行動をとりました。

ガラシャ

同盟は親の代だけという意思表示のようですね。

憲三郎先生

少し省略しますがその後の織田信長は、織田信広の謀反を潰し、弘治3年に11月2日織田信安と共謀していた織田信行(信長の弟)を謀殺。永禄2年3月に織田信安の岩倉城を攻撃し破壊。そして織田信長に謀反を企てた尾張の守護を追放します。
永禄10年8月1日に美濃三人衆が織田信長に寝返り一色左京大夫を稲葉山城から追い出し織田信長が入城。永禄10年8月15日稲葉山城から岐阜城に改名。と尾張・美濃を支配していきます。

ガラシャ

織田信長は光秀が土岐頼純に元美濃守護に仕えてたって知ってたんでしょうか?

憲三郎先生

どうでしょうか。もちろん史料には残っていませんが知っていてもおかしくはないと思います。土岐頼純は織田家を頼ったこともありますし、織田信長も土岐頼純と同じく斎藤道三の娘を正室にもらっています。

ガラシャ

土岐頼純と織田信長の奥様が同一人物という話を聞いたのですが本当ですか?

憲三郎先生

確かに同一人物説もあります。時系列では1546年に土岐頼純縁組み・1547年土岐頼純急死・1548年織田信長縁組みとなっていて史料には娘としか書かれていないので姉妹の可能性も大いにありえると思われます。どちらにしても織田信長が光秀のことを知っていた可能性はあるかもしれません。

ガラシャ

織田信長が斎藤道三と同盟を結んでいましたよね?光秀が斎藤道三を討った戦いに参加していたことを知ってたんでしょうか?

憲三郎先生

それはなんともいえませんね。その戦いに加わっていたかどうかを知らない可能性があります。

ガラシャ

もし土岐頼純に仕えていた頃の光秀を知っていたら、仇討ちを成し遂げたということを知っていたらと思うとまた少し出会いが違って見えそうです。もっと史料が発見されることを祈ります。

”光秀と織田信長の出会いは思いの外早かったのかもしれない”