第102話 丹波から丹後へ
京都での馬揃えを終えた光秀が丹波福知山に居るって、福知山でなにをしていたのですか?
光秀は、福知山でお祝い膳を振舞われていました。
何のお祝いですか?詳しく教えてください。
では、今回も史料を順にみていきましょう。
よろしくお願いします。
明智彌平次って誰ですか?
明智彌平次は三宅弥平次のことです。光秀の重臣ですね。
七五三って、あの子供のお祝いの七五三ですか?
いいえ、違います。
・・・?
11月に行われる七五三の由来には諸説ありますが、平安時代の頃から宮中で行われていた儀式が基になっているそうです。
どんな儀式ですか?
3歳の男の子・女の子は「髪置きの儀」、5歳の男の子は「袴着の儀」、7歳の女の子は「帯解の儀」という儀式です。
それぞれ別の儀式なのですね。
3歳、5歳、7歳の節目に成長を神様に感謝し、お祝いをしたことが七五三の由来とされており、やがて江戸時代に現在の七五三の原型として武家や商人の間に広まったといわれています。
ということは、この七五三はどういう意味なのですか?
七五三膳というのは三献の膳で、本膳に七菜、二の膳に五菜、三の膳に三菜を出す盛宴のことで、お祝いの膳という意味です。
何のお祝いだったのでしょう?
宗及が出席しているところをみると内輪ではなく、大きなお祝いだったようです。ただ、史料少なく断定できません。
この時に光秀は一緒だったのですか?
翌日の史料を見ると光秀も同行していた可能性があります。
どんな史料ですか?
福寿院はお寺ですか?
史料には「福寿院の振舞」とありますが、福寿院という愛宕山の僧も存在する様で、人物かお寺かは、なんとも難しいところです。
至る所でお祝いの振る舞いをいただいていますね。
この丹波の旅はもう少し続きます。
次はどこですか?
なんだか出席者がたくさんいますね・・・丹後宮津って地名ですか?
天正8年築城された宮津城のことだと思われます。
宮津城は丹後のどの辺りですか?
宮津城は今の京都府宮津市鶴賀にあった細川藤孝の居城です。今では城壁が復元されているそうです。
天正8年ということは、出来たばかりなのですね。
丹後を細川藤孝が知行すると決まった後に建てられたようです。
今回は明智家と細川家の家族ぐるみでお食事と連歌会ですね。
後継ぎ同士の関係性強化にも努めていたのかもしれません。
天橋立って有名ですよね?
天橋立は京都府宮津市の宮津湾と内海の阿蘇海を南北に隔てる、全長3.6キロメートルの湾口砂州です。
砂州とは・・・流水によって運ばれた砂が堆積する事で形成される州のこと。・・・すごいですね!
全体が外洋に面さない湾内の砂州としては、日本で唯一のものだそうです。
・・・すごいです。この旅はこれでお終いですか?
そのようで4月15日に宗及は、堅田にて明智半左衛門と茶会をしています。
なるほど、こちらは昨年に引き続き家臣の関係性強化ですね。光秀は何をしていたのですか?
この後は再び光秀は丹波に戻ります。