第64話 光秀、つかの間の平穏
前回はとても穏やかな雰囲気でしたが、今回はいかがでしょう?
蘭奢待をいただいた日が、天正2年3月28日でしたが、数日後の4月3日に石山本願寺が挙兵します。
え!?石川本願寺って、たしか一揆勢を先導しているお寺ですよね?
そうです。これを受けて織田信長は軍勢を出勤させ付近の農作物を薙ぎ捨て、一帯を焼き払いました。
この攻撃は、とても痛い攻撃です。
そして、4月13日六角義賢が石部城から撤退しました。それを受け織田信長は佐久間信盛の軍勢を入城させます。
石部城って、どこにあったのですか?
石部城は今の滋賀県湖南市にありました。現在は城址に石部氏の菩提寺である善隆寺があり、近くに案内板が設置されているようです。
六角義賢はどうして撤退したのですか?
史料からはわかりませんが、どうやら織田軍が北伊勢平定や、長嶋一向一揆攻めの一環で包囲していたようです。
なるほど。
柴田勝家はいつの間に多聞山城の工事をしていたのですか?
史料からわかるのは、柴田勝家が多聞山城の普請をしたことと、それを光秀らが労ったことだけで、他の史料が見つかれば、日付やどんな普請をしたかが、わかるかも知れません。
史料はいくらあっても良いのですが、いっぱいあるようでぜんぜん足りないですね。
山城慈照寺光源院ってどこにあるのですか?
今の京都府京都市左京区銀閣寺町にあります。銀閣寺という呼ばれ方で有名ですね。相国寺の塔頭のひとつです。
どうして造営・勤行に励むようにといわれたのでしょうか?
3月に織田信長が宿泊しているので、もしかしたら関連があるかもしれませんが、史料からは理由はわかりません。
何かがあったことだけがわかるということですか・・・。
そしてこの後7月までこれといった史料がありません。
2ヶ月も日付が飛ぶのですね。
この連歌はどこで開催されたのですか?
場所はわかっていません。しかし、この連歌会には塙直政も参加しており、脇句を詠んでいることから、この時の多聞山城の城番が塙直政であれば、多聞山城で行われた可能性が高いです。
脇句でどうして場所がわかるのですか?
場所の提供者が脇句を詠むという連歌のルールがあります。
なるほど。
その2日後の7月6日三淵藤英・秋豪父子が、坂本城にて切腹します。
ずいぶんいきなりの展開ですが、どうして坂本城でそんなことがおきたのですか?
史料からはわかりませんが、一説によると織田信長によって突如、三淵藤英の所領は没収されて身柄を明智光秀の元に預けられたようです。
突如・・・理由は何か手がかりはあるのですか?
時期的に可能性があるとすれば、武田軍の美濃侵攻になにか関係があるのかもしれません。
それにしても、どうしていきなり切腹なのでしょう?
一説には嫡男の秋豪と共に坂本城で自害を命じられたという説もあるようですが、やはり史料からはわかりません。
とっても気になりますが、史料がないのではしょうがないですね・・・。
帰参とはどういうことですか?
家臣がいったん主君から離れて、再び戻ってきたことを指します。
蓮養坊。離れていたのですね・・・。前のいざこざが原因ですか?
どうでしょう?史料からは戻ってきたことしかわかりません。
蓮養坊はどの辺りの領地をもらったのですか?
山城愛宕郡の一部のようです。しかし、詳しい場所はわかりません。
なるほど、それにしても戻ってきて良かったです。
伊藤宗十郎って誰ですか?
父の伊藤祐広とともに織田信長に仕え、元亀3年に尾張と美濃の呉服商を統括した人物です。
なるほど、尾張・美濃の商人なのですね。
後のお話しですが、慶長16年に伊藤宗十郎は名古屋で呉服小間物問屋の「いとう呉服店」を創業します。このお店が松坂屋の前身だそうです。
え!なんだか一気に親近感が湧いてきました。でもこの書状って何がわかる書状なのですか?
光秀が坂本の内政をしていたことと、坂本と尾張・美濃に物流があったことがわかります。
なるほど、坂本の商人と尾張・美濃の商人がいてそこには売買と物流がある。大枠はあまり今と変わりませんね。
そうですね。武将の暮らしより身近に感じるかもしれませんね。
なんだかすこし戦の香りもしましたが、三淵父子の切腹も謎に包まれていましたが、それでもでもまだ穏やかな方ですね。
次回は長島一向一揆との戦いです。
また戦の日々ですね。