第53話 浅井長政攻めと足利義昭謀反のその間
えっと・・小谷城浅井攻めで光秀は舟で戦いましたが、その後はどうしていたのですか?
史料を見てみると、元亀3年9月15日に光秀は上洛し、徳雲軒全宗邸へ逗留しています。
徳雲軒全宗って誰ですか?
徳雲軒全宗は、比叡山薬樹院の僧でしたが、比叡山焼き討ちの際に還俗し、曲直瀬正盛に医術を学び医者となりました。号は徳運軒なので、徳運軒 全宗と名乗り、朝廷より施薬院使に任じられた際に姓を施薬院とあらためたそうです。
お医者さん!?光秀がお医者さんの家にお泊まりって・・・。
史料には何も書いていませんが、もしかしたら戦で怪我をしたのかもしれないですね。
光秀大丈夫ですか?
史料からはなにもわかりませんが、11月には次の消息がわかるので大丈夫です。
良かったです。京都での大事件まではまだ少し時間があるのですか?
そうですね、織田信長は9月16日に横山城へ引き上げその後、足利義昭へ異見十七箇条を発行しました。
あ!引き金の書ですね。大事件に至るまで光秀はどう過ごしていたのですか?
ちぎょう?知行って何ですか?
知行とは、もともとは領主が行使した所領支配権を意味する歴史概念のことです。守護大名による守護領国制から戦国大名による大名領国制へ発展してきました。
将軍が指名した守護から、主君からもらった領土を治める武将が領主になっていったってことですね。
そうです。その中で、「知行」の意味は、武士が主君から給付・安堵(保証)された所領を意味するようになり、知行面積=知行高は、主君が武士に賦課する軍役の基準となり、その知行高の算出は、戦国期においては貫高により表されました。
石高だと思っていました。
石高で表すようになったのは江戸時代からだそうです。
なるほど。では、くにゅうってなんですか?
口入は、口出しや干渉、仲介、斡旋などの行為のことです。
蓮養坊の領土ってどこだったのですか?
史料では確かなことはわかりませんが、比叡山の周辺だったのではないかと思われます。
蓮養坊はお坊さんですか?
蓮養坊は元亀元年に比叡山を包囲した際に足利義昭から派遣された部隊にいましたので、その時点では奉公衆だったと思われます。
なるほど。
また、その時一緒にいた山本対馬守は後に光秀の部下となるので、蓮養坊も光秀が織田軍に転職した際に一緒に来ていてもおかしくありません。
足利義昭が派遣した援軍が光秀軍だとしたら、まるっと織田軍に転職していてもおかしくないということですね。
そして、領土の場所が志賀郡の一部だとしたら光秀が与えた、すなわち部下の可能性があります。
ということは、この文書はどういう事なのでしょう?
そうですね・・・ここからは仮説になりますが、おそらく蓮養坊は光秀の部下で光秀から領土をもらっていたと思われます。
そして、その領土について蓮養坊は吉田兼見に相談した・・・。なんで蓮養坊は吉田兼見に相談したのでしょう?
蓮養坊は吉田家と婚姻関係にあったようで、吉田兼見の義理の父や吉田兼見の義理の弟とする説があります。
どっちも本当ならすごい婚姻関係ですね・・・。
どちらにせよ、相談された吉田兼見は、従兄弟で共に光秀と関係が深い細川藤孝に相談に行った。のかもしれません。
「蓮養坊(佐竹出羽守)の領土に関して光秀への口出しを依頼したい」ということですね?
そうですね。
でも、もうこの頃の光秀は織田軍で、細川藤孝は奉公衆で、吉田兼見は公家で神主さん・・・。ややこしそうな問題ですね。
そうですね。こうみると役職としてというよりも身内として、友人として少し口添えという感じでしょうか。
なるほど。
約一月後、10月24日に吉田兼見は細川藤孝・三淵秋豪を訪問します。その時に、細川藤孝・紹巴が、蓮養坊の知行山門領について光秀へ口入することになっていたが、未だ実行していないと聞きます。
あれ、やっぱりややこしくなっています?
その後、蓮養坊は柴田勝家に相談したようで、11月19日柴田勝家、蓮養坊へ光秀との儀について返書しています。
どんな内容ですか?
私は遠方に居るので、信長様のお側の方に相談しなさい。というような内容です。
ちょっと柴田勝家が面倒くさそうな雰囲気を醸し出してます・・・。
そして、蓮養坊は細川藤孝に相談したようで、12月20日に細川藤孝は蓮養坊へ光秀との儀について文書を出しています。
怖いですが、どんな内容ですか?
私は賛同できかねます、わかってくれると嬉しいです。私たちの為にも良しとしてくれませんか。というような内容です。
・・・蓮養坊の意見はどうやら通っていなさそうですね。
その後の丹波攻めでは蓮養坊と弟の左近允が光秀軍に従軍しているので、主従関係はそのまま続いていたようです。
大事にならずに良かったです。他にはどんなことがありましたか?
11月3日に朝倉・浅井軍が虎御前山城に攻めてきたが、木下藤吉郎と滝川彦右衛門が応戦し撃退しました。
相変わらず一触即発の様子ですね。
雑説って何ですか?
雑説とは「いろいろな意見。諸説。また、根拠のないうわさ。」いわゆる風評のことです。
どんな風評があったのでしょう?
それが、前後の史料をみても風評の理由がわかりません。もしかしたら、この文書も年次比定に誤りがあり、元亀3年ではなく翌年の天正元年の可能性があります。翌年なら例の大事件の後なので風評が流れていてもおかしくありません。
前回も思いましたが、年次比定って難しいのですね。
磯谷新右衛門尉久次と山岡景佐って誰ですか?名付け親になるなんて、ずいぶん親しそうです。
どちらもこの後重要人物になる光秀の家臣です。
磯谷新右衛門尉久次と山岡景佐。覚えておきます。
蓮養坊のことがありましたが、吉田兼見との関係は良好なままで安心しました。
そうですね。
それより!美濃に親類が居たのですか!?
史料が少なくて詳しいことがわかりませんが、山王社敷地に建てた新城の事がもっとわかれば血縁が明らかになりそうです。
気になりますね。他には何かありましたか?
京都の南禅寺の田畑の権利についてどうして光秀が書状を?
内政の仕事だとは思われますが、もしかしたら光秀の山城国(京都)の領地だったのかもしれません。
光秀は山城国に領土を持っていたんですか?
史料が少なく確かなことはわかりませんが、連署状ではないのが気になるところです。
確かにそうですね。もっと研究が進むのを期待します。
あ!ついに天主が完成ですか!
え!?いつの間にそんなことに!?
この戦については次回詳しく説明しましょう。
気になります。