第41話 朝倉・浅井軍が逃げ込みました。

ガラシャ

朝倉・浅井軍が近江に出陣してきたので元亀元年(1570年)9月24日に織田信長が進軍を開始したら比叡山に逃げ込まれてしまいました。どうしましょう?

憲三郎先生

まず織田信長は24日の内に延暦寺の僧衆を10人ほど呼び寄せて「これから信長の味方となり忠節を尽くせば、信長領中にある延暦寺領は元どおりに返還しよう」と刀の鍔を打ち合わせて誓いました。

ガラシャ

刀の鍔を打ち合わせるのには何か特別な理由があるんですか?

憲三郎先生

これは「金打」といって、必ず約束を果たすという武士の固い誓いを表す行為です。

ガラシャ

延暦寺は独立国家のような状態だったんですよね?一方に味方してくれるんでしょうか?

憲三郎先生

そうですね。なので織田信長は「出家の道理で一方のみに味方することができないと言うのならば、朝倉・浅井方にも味方せず、我々の作戦行動を妨害しないでもらいたい」と申し入れ、朱印状にして僧衆に手渡しました。

ガラシャ

とても冷静ですね。すでにイメージと違います。でもこれだけで延暦寺は動いてくれるでしょうか?

憲三郎先生

織田信長は「もしもこの二ヶ条に違背したならば、根本中堂・日吉大社をはじめとして、一山ことごとくを焼き払うであろう」と付け加えました。

ガラシャ

しっかりと釘も刺したんですね。延暦寺のお返事はどのように?

憲三郎先生

回答はありませんでした。

ガラシャ

え?なにも?

憲三郎先生

ありませんでした。史料には「のちに、延暦寺は朝倉・浅井軍の味方をして、禁制の魚肉・鳥肉・女人までも山内に入れ、勝手気ままな悪行をしていることが判明した」とあります。

ガラシャ

・・・。お寺が・・・。

ガラシャ

宇佐山城は無事だったんですね!?

憲三郎先生

森可成らが討ち取られた後、敵方によって宇佐山城に火が放たれましたが残っていた織田軍がなんとか守り抜いたようです。

ガラシャ

こうして居城として使えたと言うことは守った甲斐がありましたね。ところで穴太ってどの辺りですか?

憲三郎先生

比叡山の麓の滋賀県大津市坂本に穴太という地名があります。宇佐山城からは4㎞くらいの所です。

ガラシャ

これだけ固めたら比叡山延暦寺も動きがあるのではないですか?

憲三郎先生

しかしここで膠着状態となります。

ガラシャ

え?

憲三郎先生

山科言継の日記には、翌26日に公家の高倉永相・奉公衆の一色藤長・上野秀政・三淵秋豪らと光秀が帰陣したことが伝聞として書かれています。

ガラシャ

包囲が続いているのに帰ってきたんですか?

憲三郎先生

敵を封鎖して長期戦となったので幕府軍だけが一足先に帰陣ということだと思われます。その後、光秀は幕府軍との連絡役として、勝軍山城に駐在しました。

ガラシャ

勝軍山城って先ほど出てきた西麓の城ですか?

憲三郎先生

勝軍山城は今の京都市左京区北白川清沢口町にある瓜生山に築かれた山城で、北白川城、瓜生山城、勝軍地蔵山城とも呼ばれています。

ガラシャ

これで光秀もしばらく待機ですか・・・。

憲三郎先生

いいえ、少しすると戦況は変わってきます。

ガラシャ

どうなるんですか?

憲三郎先生

それは次回にしましょう。

ガラシャ

ん~気になります。

”比叡山延暦寺と交渉しても回答がないので
比叡山を包囲することにしました。”