第41話 朝倉・浅井軍が逃げ込みました。
朝倉・浅井軍が近江に出陣してきたので元亀元年(1570年)9月24日に織田信長が進軍を開始したら比叡山に逃げ込まれてしまいました。どうしましょう?
まず織田信長は24日の内に延暦寺の僧衆を10人ほど呼び寄せて「これから信長の味方となり忠節を尽くせば、信長領中にある延暦寺領は元どおりに返還しよう」と刀の鍔を打ち合わせて誓いました。
刀の鍔を打ち合わせるのには何か特別な理由があるんですか?
これは「金打」といって、必ず約束を果たすという武士の固い誓いを表す行為です。
延暦寺は独立国家のような状態だったんですよね?一方に味方してくれるんでしょうか?
そうですね。なので織田信長は「出家の道理で一方のみに味方することができないと言うのならば、朝倉・浅井方にも味方せず、我々の作戦行動を妨害しないでもらいたい」と申し入れ、朱印状にして僧衆に手渡しました。
とても冷静ですね。すでにイメージと違います。でもこれだけで延暦寺は動いてくれるでしょうか?
織田信長は「もしもこの二ヶ条に違背したならば、根本中堂・日吉大社をはじめとして、一山ことごとくを焼き払うであろう」と付け加えました。
しっかりと釘も刺したんですね。延暦寺のお返事はどのように?
回答はありませんでした。
え?なにも?
ありませんでした。史料には「のちに、延暦寺は朝倉・浅井軍の味方をして、禁制の魚肉・鳥肉・女人までも山内に入れ、勝手気ままな悪行をしていることが判明した」とあります。
・・・。お寺が・・・。
織田軍は25日に比叡山を取り囲み、穴太に要塞を築き簗田広正・河尻秀隆・佐々成政らと光秀を配置、西麓の勝軍山城・にも幕府軍を含む2千以上の軍勢を配置しました。織田信長は志賀城と宇佐山城に陣を構えました。
宇佐山城は無事だったんですね!?
森可成らが討ち取られた後、敵方によって宇佐山城に火が放たれましたが残っていた織田軍がなんとか守り抜いたようです。
こうして居城として使えたと言うことは守った甲斐がありましたね。ところで穴太ってどの辺りですか?
比叡山の麓の滋賀県大津市坂本に穴太という地名があります。宇佐山城からは4㎞くらいの所です。
これだけ固めたら比叡山延暦寺も動きがあるのではないですか?
しかしここで膠着状態となります。
え?
山科言継の日記には、翌26日に公家の高倉永相・奉公衆の一色藤長・上野秀政・三淵秋豪らと光秀が帰陣したことが伝聞として書かれています。
包囲が続いているのに帰ってきたんですか?
敵を封鎖して長期戦となったので幕府軍だけが一足先に帰陣ということだと思われます。その後、光秀は幕府軍との連絡役として、勝軍山城に駐在しました。
勝軍山城って先ほど出てきた西麓の城ですか?
勝軍山城は今の京都市左京区北白川清沢口町にある瓜生山に築かれた山城で、北白川城、瓜生山城、勝軍地蔵山城とも呼ばれています。
これで光秀もしばらく待機ですか・・・。
いいえ、少しすると戦況は変わってきます。
どうなるんですか?
それは次回にしましょう。
ん~気になります。