第40話 番外編 比叡山延暦寺

ガラシャ

前回、朝倉・浅井軍は比叡山に逃げ込んでしまったのですよね。

憲三郎先生

そうですね。朝倉・浅井軍は形勢不利と感じ比叡山延暦寺へ逃げ込みました。

ガラシャ

どうして比叡山延暦寺に逃げ込んだのですか?何か良いことがあったんでしょうか?

憲三郎先生

この頃のお寺はとても力を持っていました。寺社勢力・社寺勢力とも呼ばれ、武家政権・朝廷とともに権力を三分していました。

ガラシャ

今のお寺とはなんだか違う雰囲気ですが、権力とはいってもお寺ですよね?逃げ込んでもすぐ攻められてしまいませんか?

憲三郎先生

現代とは違い延暦寺のような大寺社は僧兵を抱えていたので独自の武力を備えていました。

ガラシャ

お寺が強い・・・。

憲三郎先生

延暦寺は、配下においていた祇園社が京の鴨川の東側に大きな境内(領地)を持っていたので、衆徒・神人とよばれる俗人などで大人口を誇り経済・学問・工芸活動などが盛んだったようです。その経済力で京に大きな支配力を及ぼしていました。

ガラシャ

お寺がお金持ち・・・は、なんとなくわかる気がします。

憲三郎先生

延暦寺は自らの意に沿わぬことが起こると、僧兵たちが神輿(当時は神仏混交であり、神と仏は同一であった)を奉じて強訴するという手段で、時の権力者に対し自らの主張を通していたようです。

ガラシャ

強訴ってどうゆうことですか?

憲三郎先生

強訴とは強硬な態度で相手に訴えかける行動を指します。具体的には仏罰・神罰や武力を振りかざして、朝廷や幕府に対し自らの要求を通そうとしていたようです。

ガラシャ

どんな時に強訴をしていたのでしょうか?

憲三郎先生

寺社の荘園を国司が侵害したり、競合する寺社が今までより優遇措置を得たりした場合に強訴を起こしていたようです。また、寺社の強訴は平安時代から室町時代ごろまで盛んだったようです。

ガラシャ

お寺が・・・。なんだか想像が追いつきません。

憲三郎先生

独立国のようだったというとイメージが湧きますか?

ガラシャ

なんとなくわかる気がします!攻めにくそうです。そんな比叡山延暦寺に朝倉・浅井軍は逃げ込んだんですね。これは困ったことになりましたね・・・。

憲三郎先生

そうですね。事実この戦の収束、比叡山の焼き討ちが行われる翌年の9月まで、逃げ込んでからおよそ1年の月日を要しました。

ガラシャ

1年!?比叡山の焼き討ちってそんなに時間がかかっていたんですか?

憲三郎先生

そうです。結果だけ見るとすごく簡単そうなことも前後関係を見ていくと複雑だったり大変だったりする理由が見えてきます。これも「歴史に学ぶ」という事のひとつですね。

ガラシャ

織田信長は感情にまかせて、勢いで比叡山を焼き討ちしたようなイメージを持っていました。この後もっとお勉強していくと、違った姿が見えてくるのでしょうか?

憲三郎先生

もちろん。織田信長だけではなく光秀のイメージも違って見えると思います。

ガラシャ

次回も楽しみです。

”延暦寺を含め戦国時代の社寺勢力は
現代のお寺とはとても違った。”