第7話 斎藤道三との戦い2 和睦から毒殺 光秀美濃に潜伏?
前回6話では斎藤道三との長い戦いの後和睦をしたところまでお勉強しました。和睦ってことは平和になるようなイメージがあるんですが、その後の光秀と土岐頼純のことを教えてください。
和解の1年後1547年に土岐頼純は急死します。史料を要約すると「斎藤道三は土岐頼純を婿にとり宥めていたが毒殺」とあるので当時から斎藤道三が土岐頼純を毒殺したのではないかと考えられていたようです。光秀が32歳のことです。
敵対していたわけですから斎藤道三か土岐頼芸が疑われてもなるほどという気がしますが、そもそもそんな簡単に毒殺なんてできたのでしょうか?
戦国時代では毒殺は比較的多い殺害方法です。もっと史料が見つかれば詳しいことがわかるのですが今の史料では毒殺されたようだという所までしかわかりません。ですが、斎藤道三が最後には美濃守護職を土岐氏から奪った事実があるので、斎藤道三が疑われても仕方がないでしょう。
土岐頼純が急死したことにより光秀は主君を失うわけなんですが、光秀はどうなるのでしょうか?
ここでもう一度おさらいなのですが、光秀が初めて史料に登場するのは41歳頃です。土岐一族だということ、光秀の祖父・父の組した派閥からここまで光秀の人生を辿ってきました。
そうでした。ということは41歳頃までのあと9年も史料はないということですね。この時光秀にはどんな選択肢があったのでしょうか?
主君の土岐頼純と土岐頼芸は和睦していたので改めて明智家として土岐頼芸に仕えることもできるのではないかと思うかもしれません。しかし、当初土岐頼芸に対立した際に土岐頼芸派になった明智家の人々がいました。
明智頼尚の家の人ですね。
そうです。また、長く対立していたことを考えると敵方であった土岐頼芸に仕えると考えるのは難しいですね。
それはなんですか?
土岐頼純が急死した三年後1550年に土岐頼芸は斎藤道三によって追放されます。史料を要約すると「斎藤道三は大桑城にいた 土岐頼芸はを追い出し、頼芸は織田信秀を頼った(斎藤道三は下克上したということだ)」斎藤道三はいずれ自分が美濃守護職を奪うために土岐頼芸という神輿を担いでいただけなのです。
その時に土岐頼芸に仕えていた明智頼尚の孫の明智定明が斎藤道三と戦って戦死します。この時の戦いを記す史料には光秀の名前はありません。ちなみに土岐頼芸は追放され長く同盟関係にあった近江の六角氏を頼ります。
なるほど、光秀は土岐氏が追放されるときに戦いに参加していなかった。すなわち土岐頼芸には仕えていなかったということですね。近江、また新しい地名ですね。近江は今の何県ですか?
そう、そのとおり。近江は今の滋賀県にあたります。
では、土岐頼純が急死してから斎藤道三に敵討ちをするまでの間、光秀はどうして過ごしていたのでしょうか?
斎藤道三が斎藤義龍に家督を継がせそして反旗を翻された時、光秀は斎藤義龍の味方につき戦います。
その戦いを光秀は知っていて、加勢した。ということはそれらの情報が手にはいる程度には近くにいた。ということですね?
土岐頼芸派の明智家は戦死し、土岐頼芸は近江の六角に保護され近江に隠居している。情報を手にするにはそれほど遠くへは行けなかった、おそらく土岐の一族も残存していた美濃に住んで、主君の敵を討つチャンスをうかがっていたのではないかと思われます。あるいは積極的に土岐一族を誘って道三を討つべく画策していたのかもしれません。