第8話 土岐頼純様の敵討ち
主君の敵を討つために美濃に住んでいた光秀ですが、やっとチャンスが訪れます。斎藤道三が家督を継がせた斎藤義龍に反旗を翻された時、光秀は斎藤義龍の味方につき戦います!ということですが、どんな戦いだったんですか?
実はこの戦いについての史料があまり見つかっていないんです。
ドラマとかでたくさん見た気がしていたので意外です。
史料に残っているのは1556年の斎藤道三との戦いそれに光秀が参加したということだけです。史料には『揖斐因場守(周防守)、原紀伊守、舟木大学介、石谷近江守、明智十兵衛』とあり、土岐一族の武将が32名参加しています。
斎藤義龍がなぜ父である斎藤道三に反旗を翻したのかも分かってないんですか?
諸説あるようですが、これといった史料はまだ見つかっていません。
ん~早く見つかってほしいですね。では、その戦いはどんな結果になったんですか?
斎藤道三は討ち取られ、勝者の斎藤義龍は一色氏を名乗り美濃を治めます。
一色氏ですか?なぜ斎藤から名前を変えて一色氏を名乗ったのでしょう?
明確な史料は残っていませんが当時、一色氏は土岐氏より格が上であったことからこれからは土岐氏より偉い一色氏が美濃を治めるのだと知らしめる意図があったのではないかと思われます。
意図はなんとなくわかる気はしますが、、、今日から私は一色氏です。なんて言われても誰も納得しないですよね?
そうですね。名を変えるときは誰かから賜ったり、ゆかりがあったりすることが一般的ですから何かしらがないと幕府やほかの守護達も納得しないでしょうね。
この戦では斎藤義龍は大将なので誰かから賜るっておかしいですよね?ということは、、ゆかりがあった?斎藤義龍の両親は一色氏の方なんですか?
史料では父は斎藤道三、母は深芳野。この深芳野は土岐頼芸の愛妾で斎藤道三の願いによって下賜されたされました。一説によれば稲葉一鉄の妹であるとされています。
斎藤道三は土岐氏の小守護代の長井家の一族。深芳野は稲葉家の一族です。
あれ?関係なさそうですね?
しかし、土岐頼芸の祖父土岐成頼は一色氏出身で土岐氏に養子に来て守護職に着きました。
え?ここで土岐頼芸ですか?、、、え?ほんとの父は土岐という昼ドラのような展開ですか?
本当のところはわかりませんが、当時斎藤義龍がそう語って一色氏を名乗ったのであれば美濃の守護職として正統と思われたかもしれません。
なら土岐氏を名乗ってもよさそうな気がしますがなんで一色氏何でしょうか?
この時本来の継承者である土岐頼芸は追放され六角氏に匿われています。
土岐氏を名乗るのであれば土岐頼芸を呼び戻すことになります。より格上である一色氏を名乗ることでこれからは土岐氏に代わり『一色氏の義龍』が美濃を治めると知らしめたのかもしれません。
仇討ちが終わっても土岐氏の統治ではなくなってしまって、そのあと光秀はどうしたんですか?
この時とても重要なことをした人がいます。
重要人物ですね!誰ですか?
揖斐因場守です。
揖斐因場守?たしか仇討ちに参加した土岐一族の武将の一人ですよね?
そうです。実は揖斐因場守は揖斐五郎光親といって土岐頼武と土岐頼芸の兄弟で土岐頼純の叔父に当たる人です。
え?でも土岐さんじゃないです。後継者争いには参加しなかったんですか?
そうですね、揖斐因場守は土岐頼芸派でした。
土岐頼芸と一緒にはいなかったんです、、ね?
揖斐因場守は1549年に美濃から脱出しています。史料には「土岐頼芸の有力な支柱で会った光親は天文一六年道三に攻められ、揖斐城や城下・寺を焼かれ国外へ出たとある。」とありました。
土岐頼純が急死した後、土岐頼芸が追放される少し前ですね。揖斐因場守が斎藤義龍の味方についたのは土岐氏として斎藤道三への仇討ちということですか?
そうかもしれません。光秀は仇討の後揖因場守に連れられて越前の朝倉氏を頼ることになります。
揖斐因場守も一緒なんですね!
ところが、揖斐因場守は光秀と共に越前に行ったあとの足取りが残っていません。1560年に越前に拘置しているというのが史料に残る最後の足取りです。
ん~気になりますね。今後の研究で発見されることを祈ります。