光秀以前
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* 参考史料が年次比定していないか比定している年次を変更したもの。
? 参考史料が疑問符付きで年次比定しているもの。
西暦
和暦
月日
月日
記事
参考文献
光秀の年齢
1356
延文元年
* 12月23日
*12月23日
足利義詮、土岐下野守(頼高)へ尾張国海東郡内庶子等領地を預け置く 「土岐文書」
(注)原文は延文六年十二月二十三日と書かれているが延文は同年三月二十九日までなので誤り。永徳三年の足利義満下文記載の延文元年を採用
1366
貞治五年
* 8月 3日
*8月3日
足利義詮、土岐下野入道へ天龍寺管領地を除く尾張国海東庄、美濃国妻岐郷内笠原半分・曾木村・細野村、同国多芸庄内春木郷、武蔵国大井郷内不入讀村地頭職の事を民部少輔頼重の文和四年十一月六日の譲状のとおり相違ないと認める「土岐文書」
(注)原文では月が判読されていないが永徳三年の足利義満下文記載の八月を採用
1383
永徳三年
7月25日
7月25日
足利義満、土岐下野守(頼高)へ天龍寺領を除く尾張国海東庄、美濃国妻岐郷内笠原半分・曾木村・細野村、同国多芸庄内春木郷・多芸嶋郷・高田内河合郷、武気庄内野所・安弘見・加藤郷、同国伊川郷伊川新兵衛尉跡、武蔵国大井郷不入讀村頼重跡等の地頭職を安堵する。右、観応元年十月二十六日・同二年二月七日・同年九月二十日・延文元年十二月二十三日・貞治五年八月三日の下文で安堵のとおり。「土岐文書」
1496
明応五年
5月
5月
石丸利光、土岐成頼の子元頼を大将に担ぎ、管領細川氏・近江六角氏・伊勢北畠氏などの援助を得て美濃へ侵攻。妙純、尾張織田氏・越前朝倉氏の援軍を得て勝利し利光・元頼は自刃。石谷兵部少輔らの土岐一族も元頼に殉じ、土岐氏は衰退
1502
文亀二年
4月13日
4月13日
土岐明智上総守頼尚、譲状を認める。美濃土岐郡内の妻木村・笠原村・駄智村・ 細野村(駄智・細野両所は各半分)等を実子彦九郎(頼明)へ譲与する。兵部少輔頼典は嫡子であるが不孝を重ねたので義絶する。頼尚の遺す者は悉く彦九郎へ譲渡する。鹿苑院殿(足利義満)井勝定院殿(足利義持)御教書(頼尚童名長寿丸の時の安堵状)、重要な判物十六通を添えて譲状を渡す「土岐文書」
1566
永禄九年
10月20日
10月20日
足利義昭側近の米田求政、『針薬方』を書写。その紙背に「右一部、明智十兵衛尉高嶋田中城籠城之時口伝也」という奥書のある沼田勘解由左衛門尉所持本を近江坂本で写し たと書かれている
51歳