光秀以後
キーワードを入れて、検索ができます。
・月日の横の記号について
* 参考史料が年次比定していないか比定している年次を変更したもの。
? 参考史料が疑問符付きで年次比定しているもの。
西暦
和暦
月日
月日
記事
参考文献
本能寺の変後
1582
天正十年
6月 2日
6月2日
明智勢、本能寺を取り囲み信長を討つ。信長、初めは弓を取って射たが、その後槍で戦い、肘に槍疵を被って引き退き、そばにつきそっていた女性たちを追い出し、御殿に火を懸け、殿中奥深く入り切腹。明智勢、引き続き二条新御所へ立て籠もった信忠を討つ。光秀、 辰刻(午前八時前後)、信長父子以下を討ち果たし落人探索を指示。山岡美作(景隆)・対馬 (景佐)兄弟が勢田の橋を焼き落としたので、光秀は坂本へ帰城。巳刻(午前十時前後)、安土へ光秀謀反が伝わる。夜になって山崎片家が自邸を焼き払い居城山崎城へ退去した
0年目
1582
天正十年
6月 2日
6月2日
明智彌平次光遠(秀満)・明智勝兵衛・明智治右衛門・明智孫十郎・斎藤内蔵助利三を頭として取り巻いた。信長、弓を取り射伏せた後、十文字の鎌で戦い、数ヶ所疵を負って引き退き、美女たちをことごとく刺し殺して自ら火を懸け切腹した
0年目
1582
天正十年
6月 2日
6月2日
光秀、京都本能寺に於いて信長を焼き討ち。晴豊、二条新御所へ行ったが軍勢が取り巻いて入れず、明智家臣の井上に頼んだが無理だった。誠仁親王、供奉衆と共に漸く二条御所を脱出。夕方に屋敷共を見物。首・死人数限りなしという状態であった
0年目
1582
天正十年
6月 2日
6月2日
光秀、卯刻 (午前六時前後)に本能寺の信長を謀反により襲撃し信長は即時に討死す。信忠、二条新御所へ立て籠もった所へ明智軍が押し寄せ、討死。貞勝以下悉く討死。二条新御所の誠仁親王は辰刻(午前八時前後)に内裏へ移る。洛中騒動
0年目
1582
天正十年
6月 2日
6月2日
順慶、今朝上洛の途中、信長は急に西国出陣とて既に安土へ帰った由につき帰国した。信長、京都で生害、信忠る生害、光秀と信澄が申し合わせた(「これは嘘」と追記あり)。今暁のことが昼十時過ぎに伝わった
0年目
1582
天正十年
6月 2日
6月2日
光秀、早天に本能寺を襲撃。信長即時生害。信忠、二条新御所に立て籠もり生害す。貞勝親子三名、馬廻衆ら討死す。誠仁親王ら禁裏に避難。紹巴が輿を持ってきてお乗せした。本能寺・二条新御所等炎上、洛中・洛外驚騒。光秀は悉く討ち果たし未刻(午後二時前後) 大津へ下る。兼見、粟田口で光秀と対面し在所の安全を頼んだ(注)正本では紹巴が輿を持ってきた話、兼見が光秀に対面した話を削除
0年目
1582
天正十年
6月 2日
6月2日
寛尊、信長が本能寺で生害と聞く。光秀、未明に謀反を為して四方を取り囲み攻撃する。光秀は今度西国への暇乞に人数をお目に懸けると謀略を企てた。信忠の滞在する妙覚寺へ押し寄せ、信忠、既に本能寺落居という注進を受けて二条新御所に移る。明智軍、二条新御所を包囲。信忠、籠もった二条新御所内より誠仁親王を御所外へ脱出させる。信忠軍、御所内より切って出て、三度も寄手を退散させるが、多勢に無勢で信忠らは討死す。これにより洛中洛外大騒動となる。この日中程に奈良へ注進があった
0年目
1582
天正十年
6月 2日
6月2日
信長、背に刺さった矢を抜き薙刀で戦ったが腕に弾創を受けて部屋に引き籠もった。切腹したとも火を放って死んだともいう。信忠は親王の邸へ移り、親王は光秀の許可を得て内裏へ移った。信忠は一時間以上戦ったが明智軍が邸内に火を放ち焼死した。巡察師が信長に贈った黒人奴隷が信長の死後に信忠の邸で戦い、降伏し京都の教会へ身柄を預けられた
0年目
1582
天正十年
6月 2日
6月2日
家康、堺見物が終了した旨信長へ報告するため茶屋四郎次郎を使いとして一日に上洛させ、この日堺を出立し上洛。本多忠勝を先行させて上洛の途中に四郎次郎が京都から馬に乗って来て忠勝と枚方で行き合った。信長自害を知らされ二人は戻って飯盛山近辺で家康と出会って報告し、伊賀を越えて三河へ戻った「茶屋由緒記」
0年目
1582
天正十年
6月 2日
6月2日
呉服師亀屋栄任、信長自害を家康に注進するため堺へ迎えに行った。その際、伊賀 越えで三河に帰国とのことで栄任は京都に家康手勢が居るとのことで京都へ戻り密かに手勢を集め、近江信楽へ下って御供した「呉服師由緒記」
0年目
1582
天正十年
6月 3日
6月3日
英俊、京都からの注進で信長は本能寺にて、信忠は二条新御所にて生害したこと、菅屋長頼・村井三名・福富秀勝、小姓衆五、六百名が生害したこと、光秀は坂本城へ入城して大津・松本・瀬田(勢田)に陣取ったこと、藤孝が生害したという風聞があること、この日に大和衆は悉く大安寺・辰市・東九条・法花寺周辺に陣取ったことを知る
0年目
1582
天正十年
6月 3日
6月3日
松平家忠、京都の酒井忠次より家康の命令として西国へ出陣あると通知を受ける。 酉刻(午後六時前後)に京都で光秀・信澄謀反により信長自害の旨大野より知らせを受ける
0年目
1582
天正十年
6月 4日
6月4日
家康、伊勢から大浜へ上がり岡崎に到着。松平家忠、迎えに行き、穴山梅雪が切腹したこと、信澄謀反は嘘であることを知る(こちらの手勢と雑兵共二百余で討たせたと追記あり)
0年目
1582
天正十年
6月 5日
6月5日
英俊、昨日山城へ出陣した軍勢が早々と大和に戻って来たこと、大坂で信澄が生害したこと、信澄は光秀の聟で一段逸物であったが信孝・長秀・蜂屋頼隆らの沙汰により自害したこと、伊賀は信雄の被官衆が開城したので無防備状況となり、牢人衆が入城したこと、四日に光秀が安土城に入城したこと、佐和山城には山崎片家が、長浜城へは利三が入城したこと、 山城から帰陣した軍勢を順慶が率いて近江に移動し光秀と手を合わせ一味となったことを知る
0年目
1582
天正十年
6月 6日
6月6日
兼見、晴豊より召喚状を受けて、即時晴豊に随行し禁裏の誠仁親王へ祗侯し対面す。 親王、直に兼見へ光秀への御使として下向し京都の治安維持を厳命する旨を命ず。兼見、親王の命を受けて明日さっそく出発することになり、緞子一巻を預かり禁裏を退出す (注)正本には光秀への命令の内容は記載されていない
0年目
1582
天正十年
6月 6日
6月6日
小早川隆景、桂左太・岡宗左(毛利氏家臣)へ信長父子が一日討ち果て、二日に大坂で信孝が自害し、信澄・光秀・勝家が共謀して討ち果たしたと報ず「萩藩閥閲録」
0年目
1582
天正十年
6月 6日
6月6日
毛利輝元、満願寺へ信長親子三名が戦死した件は信澄に光秀・勝家が共謀して起こした事件であること、秀吉とは和談を締結した旨を報ず「毛利氏四代実録考証論断」
0年目
1582
天正十年
6月 7日
6月7日
兼見、御使として早々に安土へ向けて京都を出発。安土城に入城し光秀と対面、御使の趣旨を伝達し、朝廷より預かった巻物等を渡す。光秀は兼見へ今度の謀反の存分を雑談し、 蒲生賢秀が未だ出仕していないことを伝える。兼見、安土城を出て城下の町屋に宿泊す。錯乱していて不便であった(注)正本では兼見と光秀のやり取りを削除している
0年目
1582
天正十年
6月 8日
6月8日
兼見、上洛するため早天に安土を発足す。光秀上洛のため、明日の摂津への軍事行動に備え明智軍は安土城を出動。先勢は山科・大津に布陣していた。兼見、吉田郷に帰宅し休息を取った後、誠仁親王に伺候して直接委細を上奏す(注)正本では、兼見が誠仁親王へ光秀との談合内容を上奏したことを削除
0年目
1582
天正十年
6月 9日
6月9日
兼見、早々に光秀から自筆の到来予告状を受ける。光秀、未刻(午後二時前後)に上洛す。兼見、光秀を迎える為に京都白川まで出向く。公家衆・摂家・清花が悉く迎え出ており、兼見はこの旨を光秀に通知したところ、光秀は無用であると辞退。光秀、両御所(正親町天皇・誠仁親王)へ銀子五百枚、京都五山と京都大徳寺へ銀子百枚ずつ、兼見へ銀子五十枚を進上。光秀、兼見邸小座敷に暫く逗留し方々注進を受けて手配する。兼見、光秀へ夕食を進上。紹巴・昌叱・心前が相伴した。光秀、夕食後に京都下鳥羽に出陣。兼見は誠仁親王と対面し、委細申し入れた。光秀への奉書が認められたので、兼見はその奉書を携えて即時下鳥羽の光秀陣所へ下向し、銀子の御礼と奉書を光秀へ示した(注)正本では光秀が両御所へ銀子を進上した件、兼見が下鳥羽の光秀陣所へ行った件を削除
0年目
1582
天正十年
6月 9日
6月9日
晴豊、光秀が河内へ軍勢を派遣したと聞く。光秀、兼見を来訪し銀子五百枚を両御所へ進上。朝廷は光秀へ京都の治安維持をかたく申し付け、文にて光秀の銀子進上を賞す。また朝廷は兼見を下鳥羽南殿寺の光秀本陣へ派遣する
0年目
1582
天正十年
* 6月10日
*6月10日
長宗我部元親家臣中与一兵衛(中島重房?)、石谷頼辰の堺からの書状に返書。早々に御上洛があるのは目出度い、元親の身上にもかかわることであろうか、追々慶事を申し上げることを披露願いたいと告げる (年未詳)
0年目
1582
天正十年
6月11日
6月11日
英俊、藤田伝五が光秀の命を受けて順慶を訪問し合力の説得をするも同心を得られず、木津まで引き返したが順慶より呼び戻されたこと、順慶は既に秀吉へ村田某・今中某を使者として派遣し、合力の誓紙を提出したことを知る
0年目
1582
天正十年
6月11日
6月11日
秀吉、松井友閑へ一昨日明石を出発し、淡路洲本城を攻め落としたこと、夜中に兵庫まで着陣すること、直ちに尼崎まで打ち出すつもりであることを告げる「萩野由之氏所蔵文書」
0年目
1582
天正十年
6月12日
6月12日
英俊、秀吉が既に摂津まで猛勢にて迫っていること、また家康が既に安土に着陣したと聞く。明智軍が石清水八幡宮・山崎周辺に布陣していたが、淀周辺まで撤退したと聞く。昨日順慶が郡山城で国中の与力を集結させて血判起請を提出させたと聞く
0年目
1582
天正十年
6月13日
6月13日
摂津衆三人は秀吉が三レグワ(十五キロ)ほどの所まで来ていることを知り、中川清秀が山の手、池田恒興が淀川沿い、高山右近が中央の山崎村へ進軍した。明智軍は八千ないし一方、羽柴軍は二万以上、高山右近は一千に満たない軍勢。右近は光秀が村の門まで進軍してきたため秀吉軍の到着を待てずに門を開けて明智軍を攻撃し二百を討った。清秀・恒興軍も参戦して明智軍は逃げ始めた。これがきっかけとなって正午に明智軍は敗退。敗軍は午後二時に京を通り、通過に二時間要したが、盗賊らに襲われて坂本に着けなかった者が多かった。光秀は午後勝龍寺城へ入り、羽柴軍は全軍で取り囲み、都に聞こえるほど終夜銃を撃った。光秀は宵の口に坂本に向かって逃げ、農夫らに殺されて首を切られた
0年目
1582
天正十年
6月13日
6月13日
この申刻(午後四時前後)より京都山崎に於いて鉄放の音が数刻にわたり止まなかった。兼見、京都五条口より落武者たちが愛宕郡白川一乗寺周辺へ逃走し途中にて一揆に遭遇した模様で或者討捕、或者剥取のこと、京都からの通知により山崎表に於いて合戦があり光秀が敗軍して勝龍寺城に入ったこと、明智軍の戦死者は数知れないことを知る。兼見、堅く自宅の門を閉ざし門内に於いて用心していたが、吉田郷へは落人が一人も到来しなかった。山崎合戦での南方の諸勢とは神戸信孝・秀吉・池田恒興・長秀・蜂屋頼隆・堀秀政・矢部家定・中川清秀・多羅尾光俊らで、二万余の軍勢で勝龍寺城を包囲したことを知る
0年目
1582
天正十年
6月14日
6月14日
光秀、昨夜勝龍寺城を退散す。津田越前入道、兼見を訪問。この度光秀が兼見邸に到来し、禁裏と京都五山へ銀子配分した件が織田側で執沙汰され曲事とされているので織田三七郎御使として糺明のために到来したという。禁裏へ参内し誠仁親王と対面し、親王へ詳細を上奏した。親王、信孝陣所へ御使を派遣す。施薬院全宗に相談したところ秀吉へさっそく事情を申し入れるべきであるとのことであった。全宗使者・兼見使者、桑原貞也のもとへ派遣。
兼見、使者より桑原貞也の返事を受けた。その内容とは、津田越前入道は信孝が派遣したのではなく信孝へ問い合わせたところ、津田越前入道の件は御存知無きことで、津田越前入道に問貴の使者を派遣したところ、この朝より外出し行方不明とのこと。もし再度津田越前入道が到来した場合には留めて織田側に注進すべきという存分を受けて兼見は安堵した
0年目
1582
天正十年
6月14日
6月14日
明智秀満、安土城を退去し、明智の婦女子らのいる坂本城へ入る。信雄、安土城の天主に放火させ、市に火をつけるように命ず。秀吉軍が坂本城に到着するが、既に多数の者が城から逃亡していた
0年目
1582
天正十年
6月15日
6月15日
兼見、安土城が焼失し安土山下からの類火と聞く。神戸信孝へ御礼の為に吉田兼治を派遣。光秀が京都醍醐周辺にて一揆に討ち取られたこと、光秀の首級は村井清三が神戸信孝のもとへ持参したこと、高山次右衛門が坂本城天主に放火して切腹したと聞く
0年目
1582
天正十年
6月15日
6月15日
英俊、十三日に明智軍が千余人損傷し、わずか三十余名が坂本へ帰ったこと、昨日より秀吉が大津まで進撃したこと、今日比叡山の東の方が大焼というので坂本城が焼けたこと、今朝順慶自身が千余の軍勢を率いて出陣したこと、秀吉は順慶の行動を曲事としたこと、先日の合戦にて光秀の討死は確実であろうことを聞く
0年目
1582
天正十年
6月17日
6月17日
英俊、光秀が十三日に勝龍寺城を逃れ出て、山科で一揆に叩き殺され、首も胴も京都へ運ばれたことを知る。光秀は細川兵部太夫の中間であったのを取り立てられ、信長の厚恩により召し抱えられたが、大恩を忘れたので天命であった。利三が生け捕られて安土に送られたと聞く
0年目
1582
天正十年
6月18日
6月18日
兼見、利三が捕獲されて上洛し洛中を車に乗せられて引き回され六条河原にて刎首されたこと、光秀と同様に本能寺に曝されたこと、堅田の猪飼野半左衛門が捕縛したことを知る
0年目
1582
天正十年
6月26日
6月26日
秀吉、一益へ山崎での合戦、光秀の死、坂本城の落城、利三捕縛、近江平定 (以上は六月十九日付け高木彦左衛門宛書状とほぼ同文)、阿閉父子三人および一類女子共の首を刎ねたこと、尾張を平定して清須城に逗留していることを告げる「大阪城天守閣所蔵文書」
0年目
1582
天正十年
7月11日
7月11日
秀吉、鍋島直茂へ本能寺の変により毛利氏と和睦締結したこと、明智与党全滅磔刑に処したこと、国々へ従来の如く静謐を申し付けて九日に上洛したこと、近日中の姫路帰城を通知。南蛮帽子の贈答を謝す「鍋島家文書」
0年目
1582
天正十年
12月 4日
12月4日
前の美濃守護土岐頼芸、武田滅亡後に頼った稲葉一鉄の領地美濃岐礼村で没す 「稲葉家譜」 (注)以上はWEB公開中の「明智光秀全史料年表」から抜粋・転記
0年目
1938
昭和十三年
2月
2月
日本橋高島屋で第一回思想戦展覧会開催、外務省情報部矢野征記が豊臣秀吉の朝鮮侵略など日本の過去の対外戦争はすべて「日本の防衛のため」と講演 以後、大阪南海高島屋、京都丸物百貨店、福岡玉屋百貨店、佐世保市玉屋百貨店、佐賀市玉屋百貨店、熊本市千徳百貨店、大分市トキハ百貨店、札幌市今井百貨店で八月まで順次開催
356年目