光秀生涯の概略年表
西暦 | 和暦 | 月日 | 記事 | 光秀 |
1516 | 永正13年 | 1歳 | ||
光秀、美濃で明智光兼の子として産まれる | ||||
1535 | 天文4年 | 20歳 | ||
光秀、主君土岐頼純とともに斎藤道三と戦うが、敗れて越前へ逃れる。その後、天文5年、天文12年にも同様に道三と戦って敗れる | ||||
1547 | 天文16年 | 32歳 | ||
前年に道三と和睦して美濃へ復帰した頼純が道三に毒殺される。光秀は美濃に潜伏。 | ||||
1556 | 弘治2年 | 41歳 | ||
道三に敵対した斎藤竜興に加勢して道三を討ち、主君のかたきをとる。その後、越前へ逃れ、舟寄の黒坂備中守に仕え、長崎称念寺そばに十年住む。 | ||||
1566 | 永禄9年 | 51歳 | ||
5月 | 琵琶湖西岸の近江高島の田中城に幕府軍に加勢して籠城し浅井軍と戦い、手柄を立て、細川藤孝に仕える。 | |||
9月 | 足利義昭に随行して越前へ戻り、一乗谷の東大味に住む。 | |||
1568 | 永禄11年 | 53歳 | ||
10月 | 足利義昭に随行して上洛する。 | |||
11月 | 聖護院門跡の主催する連歌会へ参加する。 | |||
1569 | 永禄12年 | 54歳 | ||
1月 | 足利義昭の居所を襲撃した三好軍と戦い、手柄を立てる。その後、義昭直臣の奉公衆に出世する。 | |||
4月 | 織田家の羽柴秀吉らと連署状を発行する。 | |||
1570 | 永禄13年 | 55歳 | ||
4月 | 越前朝倉攻めの先陣をつとめる。浅井長政の寝返りで急遽退陣となり、秀吉らとしんがりを勤める。 | |||
1571 | 元亀2年 | 56歳 | ||
9月 | 比叡山焼き討ちで手柄を立てる。これにより、信長に召し抱えられ、領地を与えられて坂本城主となる。 | |||
10月 | 京都所司代村井貞勝を助けて京都の行政を翌年6月までおこなう | |||
1573 | 元亀4年 | 58歳 | ||
5月 | 討ち死にした家臣を弔い、坂本西教寺へ寄進米を奉納する。 | |||
1575 | 天正3年 | 60歳 | ||
6月 | 丹波攻めを命じられる。 | |||
7月 | 惟任日向守の名前を賜る | |||
8月 | 一向一揆攻めで越前へ攻め込む。 | |||
1576 | 天正4年 | 61歳 | ||
1月 | 丹波黒井城攻めで大敗 | |||
5月 | 石山本願寺攻めで苦戦し、信長が救助される。陣中で赤痢を患い、死にそうになる | |||
11月 | 正室が死去 | |||
1577 | 天正5年 | 62歳 | ||
2月 | 細川藤孝らと紀州雑賀攻め | |||
10月 | 謀反を起こした松永久秀を細川藤孝らと攻める | |||
1578 | 天正6年 | 63歳 | ||
1月 | 丹波攻めの拠点として亀山城築城開始 | |||
1579 | 天正7年 | 64歳 | ||
6月 | 丹波八上城を落す | |||
10月 | 丹波平定 | |||
1580 | 天正8年 | 65歳 | ||
9月 | 大和検地を実施 | |||
1582 | 天正10年 | 67歳 | ||
1月 | 長曽我部元親に信長の命令に従うように説得すべく家臣を派遣する | |||
2月 | 京都での馬揃えを奉行する | |||
2月 | 武田勝頼に謀反を起こすので味方に付けと申し入れる | |||
5月24日 | 光秀、愛宕山で連歌を詠む。「ときは今あめが下なる五月かな」「なお、国々はのどかなること」と土岐氏の再興と平安な世の到来を祈願する。 | |||
6月2日 | 光秀軍、本能寺を襲撃し、織田信長を自害に追い込む。続いて二条新御所に立てこもった織田信忠も襲撃し、自害に追い込む。 | |||
6月13日 | 山崎の合戦で光秀軍敗れる。光秀はいったん、勝竜寺城へ入り、夜脱出する | |||
6月14日 | 明智秀満、安土城を退去し坂本城に戻り一族を各地へ逃す | |||
6月15日 | 坂本城落城、光秀討たれる | |||
6月18日 | 光秀と同盟した徳川家康が甲斐の織田軍をせん滅する。 | |||
7月20日 | 粟田口に光秀の死骸がさらされる | |||
7月22日 | 粟田口に光秀の首塚が築かれる |