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 月日
 月日
記事
参考文献
光秀の年齢
1339
暦応二年
   
1339
暦応二年
   2月18日
2月18日
足利直義、土岐彦九郎頼重へ祖父頼貞の譲状により美濃国妻木郷・多芸庄内多芸嶋榛木の地頭職に任ずる「土岐文書」
1351
観応二年
   
1351
観応二年
   1月30日
1月30日
足利尊氏、明智彦九郎(頼重)・土岐孫二郎へ兵衛督直義を誅罰するために出陣を命ず「土岐文書」
1351
観応二年
   2月 7日
2月7日
足利義詮、土岐彦九郎(頼重)へ尾張国海東左近大夫将監領地を勲功により宛がう「土岐文書」
1351
観応二年
   9月20日
9月20日
足利義詮、土岐左近将監頼忠へ美濃国武儀庄内野所・安弘見・加藤郷の地頭職に任ずる。
1351
観応二年
  11月23日
11月23日
足利尊氏、土岐右馬権頭(頼康)に出陣を命ず「土岐文書」
1356
延文元年
   
1356
延文元年
* 12月23日
*12月23日
足利義詮、土岐下野守(頼高)へ尾張国海東郡内庶子等領地を預け置く 「土岐文書」 (注)原文は延文六年十二月二十三日と書かれているが延文は同年三月二十九日までなので誤り。永徳三年の足利義満下文記載の延文元年を採用
1363
貞治二年
   
1363
貞治二年
   4月21日
4月21日
足利義詮、土岐下野入道(頼高)へ尾張国海東郡内庶子等の領地を預け置く 「土岐文書」
1366
貞治五年
   
1366
貞治五年
*  8月 3日
*8月3日
足利義詮、土岐下野入道へ天龍寺管領地を除く尾張国海東庄、美濃国妻岐郷内笠原半分・曾木村・細野村、同国多芸庄内春木郷、武蔵国大井郷内不入讀村地頭職の事を民部少輔頼重の文和四年十一月六日の譲状のとおり相違ないと認める「土岐文書」 (注)原文では月が判読されていないが永徳三年の足利義満下文記載の八月を採用
1366
年未詳
   
1366
年未詳
   8月16日
8月16日
足利義詮、土岐明智(頼重)へ国中のことは刑部少輔(土岐頼康)と相談して忠に励むよう命ず「土岐文書」
1383
永徳三年
   
1383
永徳三年
   7月25日
7月25日
足利義満、土岐下野守(頼高)へ天龍寺領を除く尾張国海東庄、美濃国妻岐郷内笠原半分・曾木村・細野村、同国多芸庄内春木郷・多芸嶋郷・高田内河合郷、武気庄内野所・安弘見・加藤郷、同国伊川郷伊川新兵衛尉跡、武蔵国大井郷不入讀村頼重跡等の地頭職を安堵する。右、観応元年十月二十六日・同二年二月七日・同年九月二十日・延文元年十二月二十三日・貞治五年八月三日の下文で安堵のとおり。「土岐文書」
1390
明徳元年
   
1390
明徳元年
  閏3月
閏3月
土岐康行、挙兵するが敗れて没落。美濃守護は土岐西池田氏の頼忠が継承する。
1390
明徳元年
  12月14日
12月14日
足利義満、土岐明智氏王丸(頼篤)へ本領を安堵する「土岐文書」
1399
応永六年
   
1399
応永六年
  11月24日
11月24日
足利義満、土岐美濃入道(頼助)へ土岐明智十郎頼篤の申請した美濃国多芸庄内多芸嶋郷・同庄内口口郷等の土岐下野入道跡を安堵する「土岐文書」
1401
応永八年
   
1401
応永八年
   
土岐頼益、幕府評定衆に列する
1425
応永三十二年
   
1425
応永三十二年
   2月21日
2月21日
土岐明智國篤、知行を譲り渡す置文(遺言状)を遺す「土岐文書」
1427
応永三十四年
   
1427
応永三十四年
   6月25日
6月25日
足利義持、土岐明智長寿丸(頼秋)へ美濃妻木郷・武気庄内野所郷等を安堵 「土岐文書」
1444
文安元年
   
1444
文安元年
   
斎藤利永、守護代の座を富島氏・長井氏と争い勝つ
1447
文安四年
   
1447
文安四年
   8月 6日
8月6日
右京大夫(細川勝元)、土岐明智十郎(頼秀)へ中條左馬助が方々の悪党と相談して兵庫頭入道常秋の館に押し寄せるので早々に常秋に合力すべきよう命ず「土岐文書」
1444
文安元年~六年
   
1444
文安元年~六年
   
文安番帳(幕府役人名簿)中の外様大名衆に土岐左京大夫、外様衆に土岐明智中務少輔、四番に土岐石谷孫三郎
1450
宝徳二年~康正元年
   
1450
宝徳二年~康正元年
   
永享番帳(幕府役人名簿)中の御相伴衆に土岐美濃守持益、四番に土岐石谷孫九郎、土岐肥田中務少輔
1462
寛正三年
   
1462
寛正三年
   6月23日
6月23日
明智頼宣(玄宣)、細川勝元らと連歌を詠む
1463
寛正四年
   
1463
寛正四年
  12月 9日
12月9日
明智頼宣、細川勝元らと連歌を詠む
1467
応仁元年
   
1467
応仁元年
   1月
1月
応仁の乱始まる。応仁の乱では朝倉・六角・土岐は西軍に属し、反幕府的立場をとる
1473
文明五年
   
1473
文明五年
   2月 1日
2月1日
明智頼宣、連歌を詠む
1473
文明五年
  12月
12月
足利義尚(義政の子)、第九代将軍に就任
1477
文明九年
   
1477
文明九年
  11月
11月
応仁の乱終結。足利義視・義材父子は西軍土岐成頼に伴われて美濃に下る。延徳元年まで美濃東大寺領茜部荘に暮らす
1480
文明十二年
   
1480
文明十二年
   5月
5月
斎藤妙椿没後の家督争いで守護土岐成頼の支援を得た妙椿養子利国(妙純)が妙椿兄の子利藤に勝つ。その後、利藤は幕府支援を得て美濃守護代に復帰
1480
文明十二年
   7月 4日
7月4日
明智頼宣・政宣、連歌を詠む(政宣は一句)
1482
文明十四年
   
1482
文明十四年
   2月27日
2月27日
明智頼宣・政宣、藤宰相らと連歌を詠む
1482
文明十四年
   3月 7日
3月7日
明智政宣、宗祇らと連歌を詠む
1482
文明十四年
   3月20日
3月20日
明智頼宣、宗祇らと連歌を詠む
1482
文明十四年
   9月
9月
明智頼宣・明智六郎政宣、連歌を詠む
1484
文明十六年
   
1484
文明十六年
   3月10日
3月10日
将軍義尚の連歌会が催され、明智頼宣(頼連に改名する)、越阿、細川彌九郎同座
1486
文明十八年
   
1486
文明十八年
   3月27日
3月27日
明智頼連(玄宣)、宗祇らと連歌を詠む
1486
文明十八年
   9月30日
9月30日
明智頼連・政宣、宗祇らと連歌を詠む
1487
文明十九年・長享元年
   
1487
文明十九年・長享元年
   9月
9月
将軍義尚、六角征伐のため近江へ出陣。義材、美濃より参陣
1487
文明十九年・長享元年
   
長享番帳(義尚に随行した幕府役人名簿)中の諸大名に土岐次郎政房、四番に土岐明智兵庫助、同左馬助政宣、土岐石谷兵部少輔、土岐飛騨(肥田)中務少輔直盛
1488
長享二年
   
1488
長享二年
   4月25日
4月25日
明智政宣、宗祇・光信らと連歌を詠む
1489
長享三年・延徳元年
   
1489
長享三年・延徳元年
   3月26日
3月26日
将軍義尚、近江の陣中で没す
1489
長享三年・延徳元年
   4月14日
4月14日
足利義視・義材父子、上洛
1489
長享三年・延徳元年
   7月28日
7月28日
明智入道(玄宣)・同右馬助(左馬助の誤記)、細川民部少輔・同宮内少輔らと連歌
1489
長享三年・延徳元年
  12月26日
12月26日
明智玄宣・政宣、宗祇らと連歌を詠む
1489
長享三年・延徳元年
   
明智兵庫入道(玄宣)、宗祇に連歌宗匠の後継に指名されるが辞退
1490
延徳二年
   
1490
延徳二年
   1月 7日
1月7日
足利義政、没す
1490
延徳二年
   3月 5日
3月5日
明智中務少輔政宣、宗祇らと連歌を詠む
1490
延徳二年
   7月23日
7月23日
明智政宣、宗祇らと連歌を詠む
1490
延徳二年
   7月 5日
7月5日
足利義材、第十代将軍の宣下を受ける
1491
延徳三年
   
1491
延徳三年
   1月 7日
1月7日
足利義視、没す
1491
延徳三年
   4月21日
4月21日
将軍義材、六角攻めを命ず
1492
延徳四年・明応元年
   
1492
延徳四年・明応元年
   
東山番帳中の国持衆に土岐左京大夫(成頼)、外様衆に土岐明智中務少輔(政宣)、 四番に土岐明智兵庫頭(玄宣)・土岐石谷兵部大輔・土岐肥田判官・土岐肥田中務少輔
1492
延徳四年・明応元年
  12月14日
12月14日
将軍義材、六角攻めに勝利し京都へ凱旋
1493
明応二年
   
1493
明応二年
   4月22日
4月22日
細川政元、将軍義材を廃し、清晃(足利義高)を第十一代将軍に擁立
1493
明応二年
   6月29日
6月29日
足利義材、京都を脱出し越中へ逃れる
1494
明応三年
   
1494
明応三年
   9月21日
9月21日
足利義材、越中で正式に細川政元・将軍義高打倒の兵を挙げる
1495
明応四年
   
1495
明応四年
   1月 6日
1月6日
土岐兵庫頭明智入道玄宣、宗祇らと新撰菟玖波集/撰集/祈祷に参加し連歌を詠む 一月六日 玄宣、新撰菟玖波祈念百韻に参加し、『新撰菟玖波集』に九句入選
1495
明応四年
   3月28日
3月28日
幕府奉公人の下総守(飯尾爲頼)・前丹後守(松田長秀)、土岐明智兵部少輔頼定と同名兵庫頭入道玄宣の相論は知行を折中して和睦するよう命ず「土岐文書」
1495
明応四年
   7月
7月
斎藤妙純、船田合戦で守護成頼・斎藤利藤方の石丸利光を破り、利光は近江へ逃亡
1496
明応五年
   
1496
明応五年
   5月11日
5月11日
玄宣明智入道、藤中納言入道・姉小路宰相などと連歌
1496
明応五年
   5月
5月
石丸利光、土岐成頼の子元頼を大将に担ぎ、管領細川氏・近江六角氏・伊勢北畠氏などの援助を得て美濃へ侵攻。妙純、尾張織田氏・越前朝倉氏の援軍を得て勝利し利光・元頼は自刃。石谷兵部少輔らの土岐一族も元頼に殉じ、土岐氏は衰退
1496
明応五年
   8月15日
8月15日
明智玄宣、宗祇・光信らと連歌を詠む
1496
明応五年
  12月
12月
斎藤妙純、石丸利光に加担した六角氏を攻め、近江土一揆に敗れて自害し、斎藤氏も衰退
1497
明応六年
   
1497
明応六年
   4月 3日
4月3日
土岐成頼、没す
1498
明応七年
   
1498
明応七年
   9月
9月
足利義材、越中を去り越前朝倉貞景を頼る。このころ義尹へ改名
1498
明応七年
 閏10月 6日
閏10月6日
明智玄宣・政宣、宗祇らと連歌を詠む
1498
明応七年
 閏10月11日
閏10月11日
明智入道玄宣・明智中務少輔政宣、宗祇・宗長・玄清らと連歌
1499
明応八年
   
1499
明応八年
   7月20日
7月20日
足利義尹、上洛を目指して越前を出陣
1499
明応八年
  11月22日
11月22日
足利義尹、坂本へ進軍するが六角氏に大敗する
1499
明応八年
  12月 晦日
12月晦日
足利義尹、周防の大内義興を頼る
1500
明応九年
   
1500
明応九年
   2月
2月
明智玄宣、細川家千句で連歌を詠む。以後名が見えない
1500
明応九年
   7月 6日
7月6日
明智政宣、宗祇らと連歌を詠む
1501
明応十年・文亀元年
   
1501
明応十年・文亀元年
   
この頃将軍義澄と細川政元の対立が始まる
1502
文亀二年
   
1502
文亀二年
   4月13日
4月13日
土岐明智上総守頼尚、譲状を認める。美濃土岐郡内の妻木村・笠原村・駄智村・ 細野村(駄智・細野両所は各半分)等を実子彦九郎(頼明)へ譲与する。兵部少輔頼典は嫡子であるが不孝を重ねたので義絶する。頼尚の遺す者は悉く彦九郎へ譲渡する。鹿苑院殿(足利義満)井勝定院殿(足利義持)御教書(頼尚童名長寿丸の時の安堵状)、重要な判物十六通を添えて譲状を渡す「土岐文書」
1502
文亀二年
   9月15日
9月15日
宗祇、没
1505
永正二年
   
1505
永正二年
   7月29日
7月29日
明智政宣、宗祇年忌の連歌を詠む
1507
永正四年
   
1507
永正四年
   6月24日
6月24日
細川政元、養子の澄之に殺される
1507
永正四年
   8月 1日
8月1日
細川澄之、殺害され、細川澄元が台頭
1508
永正五年
   
1508
永正五年
   1月頃
1月頃
足利義尹、京都奪還を目指して大内義興の大艦隊と周防を出陣
1508
永正五年
   4月
4月
細川高国、澄元を追放し細川一門の惣領となる。将軍義澄、京都を去り近江へ退く
1508
永正五年
   5月 7日
5月7日
一色宮内少輔材延、土岐明智(頼明)へ足利義材の帰洛にあたり早々に参陣すべきことを返信する「土岐文書」
1508
永正五年
   6月 8日
6月8日
足利義尹、大内義興・細川高国らと上洛
1508
永正五年
   7月 1日
7月1日
足利義尹、将軍に復位する
1508
永正五年
   7月24日
7月24日
明智政宣、宗祇追善和歌を詠む
1511
永正八年
   
1511
永正八年
   8月14日
8月14日
足利義澄、流浪先の近江岡山で病死
1513
永正十年
   
1513
永正十年
   3月18日
3月18日
足利義尹、大内義興・細川高国と対立し、京都から近江甲賀へ出奔
1513
永正十年
   5月 3日
5月3日
、足利義尹、大内義興・細川高国に迎えられて上洛
1513
永正十年
  11月 9日
11月9日
足利義尹、義稙に改名
1515
永正十二年
   
1515
永正十二年
   7月14日
7月14日
一色兵部大輔尹泰、土岐明智彦九郎(頼明)へ将軍復帰(足利義稙)にあたって 太刀を進上したことの礼を返信する「土岐文書」
1515
永正十二年
   8月 7日
8月7日
一色材延、土岐明智彦九郎(頼明)へ将軍(足利義稙)入洛につき早々に上洛すべき旨を返信する「土岐文書」
1517
永正十四年
   
  2歳
1517
永正十四年
  12月
12月
土岐政房、土岐頼武を担ぐ斎藤新四郎(利良)と戦って敗れる
  2歳
1518
永正十五年
   
  3歳
1518
永正十五年
   8月10日
8月10日
斎藤利良、守護土岐次郎(頼武)を担ぎ土岐頼芸を担ぐ土岐政房・斎藤彦四郎と戦って敗れ、頼武と越前朝倉氏を頼る
  3歳
1518
永正十五年
  12月26日
12月26日
足利義稙、朝倉弾正左衛門尉(孝景)へ越前に逗留している土岐次郎(頼武)を早々に参洛させるように命ず「彰考館文庫所蔵文書(室町御内書案)」
  3歳
1519
永正十六年
   
  4歳
1519
永正十六年
   6月16日
6月16日
土岐政房没し、法要が行われる
  4歳
1519
永正十六年
   9月下旬
9月下旬
斎藤利良、朝倉氏の合力を得て越前より美濃へ攻め込み合戦「東寺過去帳」
  4歳
1519
永正十六年
   9月
9月
土岐頼武、朝倉氏の援護を得て美濃へ復帰し守護となる
  4歳
1519
永正十六年
  11月
11月
細川澄元、阿波で挙兵し三好之長に率いられた細川澄元軍が京都に迫る
  4歳
1520
永正十七年
   
  5歳
1520
永正十七年
   2月
2月
細川高国、細川澄元軍に大敗し京都を脱出して近江六角氏を頼る。将軍義稙、細川澄元と同盟
  5歳
1520
永正十七年
   5月11日
5月11日
細川高国、細川澄元軍に大勝し三好之長を斬って帰京を果たす。このころ澄元没す
  5歳
1520
永正十七年
   
土岐頼武、大桑城を築く
  5歳
1521
永正十八年・大永元年
   
  6歳
1521
永正十八年・大永元年
   2月 2日
2月2日
石河四郎右衛門尉知直、明智兵部大輔(定明)へ一色尹泰を通じて官途申請を将軍へ上申している旨を伝える「土岐文書」
  6歳
1521
永正十八年・大永元年
   3月 7日
3月7日
足利義稙、高国と対立し京都を出奔し、淡路島へ移る
  6歳
1521
永正十八年・大永元年
  12月25日
12月25日
足利義晴(義澄の子)、細川高国に擁立されて十二代将軍となる
  6歳
1525
大永五年
   
 10歳
1525
大永五年
   8月 8日
8月8日
土岐頼武、長井氏に敗れ斎藤利良没。頼武も没したか越前へ逃れたとみられる「于恒宿禰記」
 10歳
1525
大永五年
   
この後土岐頼芸、守護に就任
 10歳
1526
大永六年
   
 11歳
1526
大永六年
   6月 4日
6月4日
明智政宣、宗長らの百韻に参加
 11歳
1526
大永六年
   9月
9月
明智政宣、故宗祇の句を発句として三吟を巻く。その後、東国へ赴く
 11歳
1527
大永七年
   
 12歳
1527
大永七年
   2月
2月
細川高国、細川晴元方の三好元長らに敗れ、将軍義晴と近江坂本へ逃れる
 12歳
1527
大永七年
   3月17日
3月17日
将軍義晴、土岐次郎(頼芸)へ近江から御内書で美濃動乱が収束していない認識を示す
 12歳
1528
大永八年・享禄元年
   
 13歳
1528
大永八年・享禄元年
   2月
2月
将軍義晴、土岐次郎(頼芸)へ長井新左衛門(道三の父)が押領した奉公衆佐竹常秋の知行地の返還を命ず
 13歳
1528
大永八年・享禄元年
   5月
5月
将軍義晴、近江坂本へ動座、九月に高嶋郡朽木庄へ動座
 13歳
1531
享禄四年
   
 16歳
1531
享禄四年
   2月 1日
2月1日
将軍義晴、細川晴元に呼応した浅井氏に攻められ、朽木谷から逃れ、坂本へ移る 六月八日 細川高国、摂津尼崎広徳寺にて切腹
 16歳
1531
享禄四年
   6月
6月
美濃太守頼芸、細川高国の戦死を悼む「頌文雑句」
 16歳
1533
天文二年
   
 18歳
1533
天文二年
   
斎藤道三、家督を継ぐ
 18歳
1534
天文三年
   
 19歳
1534
天文三年
   9月
9月
将軍義晴、細川晴元と和睦し京都へ戻る
 19歳
1535
天文四年
   
 20歳
1535
天文四年
   6月
6月
土岐頼芸、亡父政房の十七回忌を執り行う「仁岫録」
 20歳
1535
天文四年
   8月17日
8月17日
斎藤道三、六角氏・朝倉氏が支援する土岐頼純と戦い勝利。頼純、越前へ逃れる
 20歳
1536
天文五年
   
 21歳
1536
天文五年
   7月
7月
土岐頼芸、美濃守に任官「後奈良天皇宸記」
 21歳
1536
天文五年
   9月
9月
土岐頼純、六角氏・朝倉氏の支援で斎藤道三と戦う
 21歳
1537
天文六年
   
 22歳
1537
天文六年
   2月
2月
土岐頼芸・斎藤道三と土岐頼純・六角氏・朝倉氏和睦。その後、頼芸の娘が六角義賢に嫁ぐ
 22歳
1537
天文六年
   
この頃 土岐次郎(頼純)を美濃へ帰国させるにあたって六角定頼から朝倉孝景へ義俊を介して依頼「三宝院伝法灌頂密印」紙背文書
 22歳
1538
天文七年
   
 23歳
1538
天文七年
   8月
8月
土岐次郎(頼純)、越前から帰国し大桑城へ入る「鷲見文書」
 23歳
1541
天文十年
   
 26歳
1541
天文十年
  10月 晦日
10月晦日
将軍義晴、近江坂本へ移る
 26歳
1543
天文十二年
   
 28歳
1543
天文十二年
   
?年末 土岐二郎(頼純)、斎藤道三と大桑で戦い敗れ、織田信秀を頼り尾張へ逃れる
 28歳
1544
天文十三年
   
 29歳
1544
天文十三年
   3月25日
3月25日
土岐頼純の母、尾張で父朝倉貞景三十三回忌の法要を催す「別本仁岫録」
 29歳
1544
天文十三年
*  8月22日
*8月22日
明智光秀、一色氏家臣とみられる前野丹後守へ次郎(土岐頼純)の越前亡命にあたって朝倉殿(孝景)が同心するとのことに満足している旨を伝える「木倉豊信氏蒐集文書」
 29歳
1544
天文十三年
   9月22日
9月22日
土岐二郎(頼純)、越前朝倉氏・尾張織田氏の支援を得て美濃へ侵入するも道三に敗れ越前に逃れる「信長公記」
 29歳
1545
天文十四年
   
 30歳
1545
天文十四年
  12月
12月
足利義藤(義輝)、坂本において元服・将軍宣下
 30歳
1546
天文十五年
   
 31歳
1546
天文十五年
   9月
9月
土岐頼純、斎藤道三と和睦し帰国「永泉余滴」
 31歳
1547
天文十六年
   
 32歳
1547
天文十六年
  11月17日
11月17日
土岐頼純、二十四歳で没す。斎藤道三による暗殺とみられる
 32歳
1549
天文十八年
   
 34歳
1549
天文十八年
   6月
6月
足利義晴・義輝、三好長慶に敗れた細川晴元と朽木谷へ逃れる。
 34歳
1549
天文十八年
  10月
10月
足利義晴、愛宕山北の地蔵山に中尾城を築城開始
 34歳
1550
天文十九年
   
 35歳
1550
天文十九年
  10月
10月
斎藤道三、土岐頼芸を追放
 35歳
1551
天文二十年
   
 36歳
1551
天文二十年
   2月
2月
将軍義輝、朽木庄へ逃れ、天文二十一年正月まで滞在
 36歳
1552
天文二十一年
   
 37歳
1552
天文二十一年
   6月
6月
土岐頼芸を庇護していた六角氏、頼芸を追った斎藤道三を攻める
 37歳
1553
天文二十二年
   
 38歳
1553
天文二十二年
   8月
8月
将軍義輝、朽木庄へ逃れ、永禄元年(一五五八)三月まで滞在
 38歳
1554
天文二十三年
   
 39歳
1554
天文二十三年
   3月
3月
斎藤道三、隠居し家督を義龍へ譲る
 39歳
1556
弘治二年
   
 41歳
1556
弘治二年
   4月
4月
斎藤道三、義龍に攻められて敗死
 41歳
1556
弘治二年
   
斎藤道三、義龍に討たれる。義龍軍には揖斐因幡守・原紀伊守・舟木大学介・石谷近江守・明智十兵衛ら土岐一族が味方に加わる
 41歳
1560
永禄三年
   
 45歳
1560
永禄三年
   7月21日
7月21日
斎藤義龍、六角氏と同盟を結ぼうとする。この時点で六角氏は土岐頼芸を保護、 朝倉氏は頼芸弟揖斐五郎光親を保護し土岐氏の領国回復を名目に美濃侵略を狙っていた
 45歳
1565
永禄八年
   
 50歳
1565
永禄八年
   7月28日
7月28日
覚慶(後の足利義昭)、朝倉義景の調略により奈良一乗院を脱出し甲賀和田惟政の元へ逃れる「上杉古文書」
 50歳
1565
永禄八年
   8月14日
8月14日
朝倉義景の重臣前波吉継、和田惟政へ足利義昭を越前に迎える意思を返書「和田家文書」
 50歳
1565
永禄八年
  11月21日
11月21日
足利義昭、近江野洲郡矢島へ移る
 50歳
1565
永禄八年
  12月 5日
12月5日
織田信長、細川藤孝へ義昭上洛に供奉する意思を表明「高橋義彦氏所蔵文書」
 50歳
1566
永禄九年
   
 51歳
1566
永禄九年
   3月10日
3月10日
足利義昭、信長と斎藤龍興の和睦を調整し、上使として細川藤孝を派遣したことを 上杉謙信へ報ずる「上杉古文書」
 51歳
1566
永禄九年
   4月18日
4月18日
足利義昭、細川藤孝・和田惟政へ信長が上洛に加勢することを喜び、時期を確認するように命ず「和田家文書」
 51歳
1566
永禄九年
   
浅井長政、高嶋郡の土豪饗庭氏を中心とする三坊(西林坊・定林坊・宝光坊)を味方に付けて幕府御家人朽木・田中氏の所領押領を図る「来迎寺文書」
 51歳
1566
永禄九年
   4月18日
4月18日
浅井長政、西林坊・定林坊・宝光坊の忠節を褒め知行を宛がう
 51歳
1566
永禄九年
*  5月19日
*5月19日
明智光秀、曾我助乗へ高嶋で饗庭三坊の城下に放火し、敵城三ヶ所落とした旨を義昭へ披露するように依頼「細川家文書」
 51歳
1566
永禄九年
   6月11日
6月11日
足利義昭、和田惟政へ信長の上洛を促すように命ず「和田家文書」
 51歳
1566
永禄九年
   7月13日
7月13日
足利義昭、若狭の武田彦五郎(信方)へ信長が斎藤龍興と和睦して来月出陣する旨を伝える「武家手鑑」
 51歳
1566
永禄九年
   8月28日
8月28日
足利義昭、近江矢島にて山城・伊賀の武将へ織田信長と上洛する旨の書状を記す「米田家文書」
 51歳
1566
永禄九年
   8月29日
8月29日
足利義昭、三好三人衆と六角氏に追われて矢島を退座し若狭へ逃れる
 51歳
1566
永禄九年
   9月 8日
9月8日
足利義昭、近江矢島から若狭を経て越前敦賀へ移る「上杉家文書」
 51歳
1566
永禄九年
  10月20日
10月20日
足利義昭側近の米田求政、『針薬方』を書写。その紙背に「右一部、明智十兵衛尉高嶋田中城籠城之時口伝也」という奥書のある沼田勘解由左衛門尉所持本を近江坂本で写し たと書かれている
 51歳
1566
永禄九年
   8月
8月
「永禄六年諸役人附」後半部の足軽衆の末尾に明智
 51歳
1568
永禄十一年
   
 53歳
1568
永禄十一年
   2月 8日
2月8日
足利義栄、将軍宣下を受ける
 53歳
1568
永禄十一年
  10月14日
10月14日
足利義昭、京都本圀寺へ入り、織田信長と上洛を果たす
 53歳
1568
永禄十一年
  10月18日
10月18日
足利義昭、将軍宣下を受ける
 53歳
1568
永禄十一年
  11月15日
11月15日
明智光秀、聖護院宮・飛鳥井雅敦・細川藤孝・紹巴らと連歌に参加
 53歳
1568
永禄十一年
   
この頃 武田信玄重臣の高坂弾正、「信玄が死ねば織田信長は徳川家康を殺す」と予測を述べ る。馬場美濃守・内藤修理もそれに同意する
 53歳